詩集どうでしょう?
詩を書いて出版しました。
餌をやっても懐かなかった鳥が、水を浴びせると近くに寄って来た。鳥は僕にも水を浴びせた。羽根で器用に水をすくって。
僕は手のひらを使って、思う存分水を浴びせた。ふざけ合って笑い、いつの間にか友達になった。
足元にできた水たまりが広がり、大きな海になった。「泳ごう」と鳥は言った。
「飛ばないの?」と僕は訊いた。だが鳥はもう魚だった。
スーパーの一画で本を売っていた。僕は小説を見たが君は哲学や歴史の本を手に取った。そして「やっぱり私が働いた方がいいのかしら」と言った。日本語でもフランス語でも英語でもない言葉で。それはほとんど独り言のように聞こえたが、ちゃんと僕には伝わった。
ほんのしばらくの間、僕は夢見ることをやめた。寝たふりをしながら、君の独り言を聞きつづけた。
「嘘だろ」とその若者は言った。
「若者はこういうスポーツカーには乗らない」と僕は言った。「若者は軽のワンボックスに乗る」
「じゃあスポーツカーには誰が乗るの?」
「君みたいなのが乗りつづけるんだよ、オジサンになってもずっと」
「無理に信じてもらわなくてもいいんだけど‥‥」前任者はそういう態度だったが、僕は真剣だった。
僕は40年後の未来から来た。その時代の人に、未来から来たことを信じさせようとした。
数キロ先に船が見えた。僕は鳥のような視力で、甲板に友達がいるのを見た。彼はキャッチボールをしようと言った。
異常に表面張力が高い海に、僕は浮いていた。海の上を歩くことができた。
鳥が海面を歩いていた。「飛ばないの?」と僕は訊いた。「背中に僕を乗せてくれる?」
「あの船まで行ってよ」
鳥は僕を背中に乗せたまま歩き出した。
ドアノブに手をかけた瞬間、扉は勝手に開いて、なぜだか僕は、君の手を握ったときのことを思い出した。
部屋のあちこちに、アイスクリームが置いてあった。溶けたアイスクリームもあれば、ちゃんとしたアイスクリームもあった。
だいたいのアイスクリームはちゃんとしていた。
「アイスクリームには、順番があるのよ」と君は言った。何のことかわからなかったが、僕は「うん」と答えた。順番を守らないアイスクリームが、溶けたアイスクリームなのだろうと思って。
左腕を失う。するとみんなが優しくなる。飛行機に乗る。僕はビジネスにアップグレードされる。空港に到着する。偉い人が出迎えてくれる。
美術館に行く。とうの昔に死んだはずの画家が、生き返る。自作を僕のために解説してくれる。
そして君に会う。「とっても嬉しそうね」と君は皮肉を言う。
僕は覚えてないが、何か言い訳をする。右手で義手を隠しながら。
「あなたは報いを受けたのよ」 と君は言う。「いいのよ」
行きたいところがあり、それは全部地図に載っている。地図は溶けかかっている。地図はアイスクリームでできているのだ。
溶ける前に食べてしまおうと僕は思う。見る前に食べちゃだめよ。君は注意する。
お土産はミニカー。日産スカイライン。「気に入った?」と僕は訊く。「気に入ったよ」と僕は答える。どっちも僕だ。部屋にはたくさんの僕がいる。みんなミニカーで遊んでいる。すべてのミニカーがスカイラインだ。満足して僕は立ち去る。
走っても走っても、夜が明けない気がする。運転席の、君はそう言っていた。
この夏の夜は、きっと地球の裏側まで、どこまでも永遠につづいている‥‥
眠った。「ワンチャン」「ワンチャン」という声を、子守唄のようにして眠った。そして次に目を覚ますと、君は車の助手席にいる。夜だった。不思議に明るい夜で、空の上の電球のような何かが僕たちを照らしていて、車は草むらの中に停まっている。
「ワンチャン」というのは、カエルが鳴いているのだった。
それで、子守唄は? と僕は訊いた。子守唄さ。何のこと? 聴こえると思う、この星の夜の側で、今誰かが歌っているのを。
昼の側の僕を、寝かしつけようとする歌。
ほら空の上の、電球が消えた。
大丈夫、と声に言う。幸せだよ。
電話が、かかってくる。「あなたたちがどんな人なのか、あなたたちに知らせようと思って」
「知ってるよ、僕たちは僕たちなんだろ?」
何度も繰り返す、レコード、カセットテープ、CD。
違うのよ、と声は歌う。そういうことじゃないの。
デパートの中のレストランではない場所で、僕たちは食事中で、食べ終えてはいなかったのだけど、僕は立ち上がって、出掛けると言った。
水平方向に動くエレベーターに乗り、隣町のデパートへ、出発だ。
靴の紐を、エレベーターの中で結んだ。そうしている間に、自分のいたデパートの名前を、忘れてしまった。これから行くデパートの名前も、忘れてしまった。
白い雲が、形を変え、僕についてきた。それはもう、形が変わり過ぎて、雲には見えなかった。雲は僕の、白い影のように見えたと思う。
(‥‥僕の黒い方の影が、白い影に、手を伸ばす。僕の2つの影は、仲の良い恋人同士のように、手を繋いで歩く。)
蚊取り線香の中心部に、月が落ちてきて輝き始めた。
月は僕に言った。これ以上蚊を捕まえて食べてはいけないよ。
わかった、と僕は言った。少し食べ過ぎたみたいだ。
明かりの中心が、朝の方角にずれる。その前に月と蚊は、また違う火の中へ落ちた。
海岸でラグビーをやっている。コマーシャルの撮影だろう。僕は海水浴客たちと一緒に、それを眺めていた。心の中に、勝手にサウンドトラックが流れた。
陽光の下では、不自然なほど、誰も日焼けをしていない。ラグビーのボールは、本物ではなく、風船でできたおもちゃだ。ふわふわと浮いたまま、地面に落ちることはない。
「ス」で終る言葉を言っていく、それはしりとりのようなゲームで、君はスペース、コンプライアンスなどと言って攻める。
「ドンタコス」
「なにそれ?」
「日本のお菓子」
「ふーん」
疑いの目。
「アクオス」
「だからなにそれ?」
「日本のテレビ」
はっきりと疑いの目。
君はナース服を着ている。ナースキャップをかぶっている。とても可愛い。とてもわかりやすい罠だ。「ナース」と言ってしまったら、僕の負けだろう。
買ってきてもらった花が机の上に置いてある。まとめて、「花束」にしようか?
明日君に渡すのだ。今からもう出掛けようか?
外は雨。
花を抱えて、町中うろつく。
「人生を転がさないで」と書かれたポスターが町のいたるところに見える。
「人生はいちど転がるとどんどん転がります」
しかしそれの何がいけないんだろう。
小石をステッキで打ち穴に入れる、ゲートボールとビリヤードを足して割ったようなゲーム。
見物していたら、やらないかと誘われた。
ステッキを受け取り、小石に狙いをつける僕に、見物客たちが、「ワンチャン」「ワンチャン」と声をかけた。
僕も一緒に「ワンチャン」と声に出した。
すると君は「違う」と言った‥‥
僕は石を打つのはやっぱりやめにして、見物客に戻った。
そして「ワンチャン」「ワンチャン」と繰り返した。
エメラルドの海を自転車で渡る。でこぼこして硬い海、転んだら大変だ。頭を打って死んでしまうだろうから。
海は本当に硬い、魚があちこちで跳ねている、海に潜ろうとして潜れない。僕は緑色の宝石を海から削り取る。
‥‥それは海の鱗だ。
白い空き地に生えた白い草は、人間の手のようだ。草が風に揺れるとき、手を振っているようだ。バイバイ。僕も手を振って、空き地を去った。
ほんの2メートルも離れると、その白い草は白い背景に紛れ、見えなくなった。「誰にバイバイしてるの?」母親のような女が、子供に話しかけている。
外国語の単語を聞いて、その意味をノートに書く。
インパン → 淫乱
などと。
ノートはすぐに埋まる。どこの国の言葉だろう。「覚えた?」と君は訊く。
僕たちはもうその国の言葉で話している。いちばん最初に覚えた「インパン」を使う機会を僕は密かに探っている。
ギターを背負って、自転車に乗っている。それでどこへ向っているのかと言うと、コンサートホール。自転車はETの映画のように、宙に浮いた。
ホールに着いた。別に演奏するわけじゃない。僕は今日は客だ。ステージに、楽器を持たない人たちが、上がる。彼らには椅子はない。
あれは何のコンサートだったのだろう。数時間前の記憶。その記憶のあった場所は、脳みその外に飛び出していってしまった。ホールの跡地は、白い空き地になっている。
距離が逃げているのを、泥棒が追いかけている。泥棒は距離を盗もうというのだ。
僕は距離に偽の書類と100ドルを渡した。「これでタイに逃げればいいよ‥‥」
海の上を走る泥棒の自転車。距離はアメリカまでの距離になりたがった。自転車でそこまでは走れない。
死ぬと熱くなる死体と、死ぬと冷たくなる死体がある。刑事の死体は冷たくなった。彼の上着のポケットから、手錠の鍵を抜き取った。
鍵は刑事より熱かった。
持っていると、どんどん熱くなっていった。結局、その鍵を使わなくても、手錠は自然に外れた。
☆
刑事が僕を捜している。女子トイレの中を。どうして僕がそこにいると思うのだろう。
結局の結局、女子トイレの外で僕は手錠をかけられる。いったい何の罪で? 女子トイレにいなかった罪だよ。僕は持っていたおもちゃのような拳銃で、冷ややかに刑事を撃つ。
白いタンクトップの上に青いカーディガンを羽織った君、家に帰ろうとしているの? 僕は手を引いて無理矢理に誘った。
広場では七夕の祭りをやっている。電飾を身にまとった男女が夕闇の中踊っている。派手なホタルたち。僕たちも踊ろう。
誕生日が七夕だということを隠している。ホタルたちはみんなそうなのだ。君にはまだ話してないことが1つ、今年こそ打ち明けよう。
人間が人間ではないものに改造されている。捕まったら僕も改造されてしまうだろう。僕は床に落ちていたアヒルのおもちゃを拾った。子供がお風呂に浮かべて遊ぶおもちゃだ。頭の上に乗せ紐でくくりつける。誤摩化せるかどうかはわからないが、これで僕もアヒル人間というわけだ。晴れて改造人間というわけだ。
冷凍肉の大きな塊を持った人たちが列をつくっている、その先頭に僕はいた。
会計を待っている、僕は何も持っていないのに。僕は何を買おうとしているのだろう。レジ係はいない。
床にぽたっ、ぽたっと滴が落ちる。後ろに並んだ人たちの抱える肉が溶けていく。
知り合いのハタチの女のコがわざわざやって来て言った。「いつも自由でいいですね」
それで思い出した。このコの前では、僕は自由でなければならないのだ。
「君もいつも可愛いね」
「ありがとうございます。いつもそう言ってくれますよね」
「いつもだったっけ?」
「いつもです。それで私、この人の前では、とくに可愛くしてなきゃいけないんだった、って思い出すんです」
なるほど、彼女もそれを思い出しに来たのだろう。
金持ちの老人が死んで灰になった。老人が可愛がっていたペットのゾウガメも死んだ。
「2人はとても仲良しでした」と老人の若い妻は僕に言った。
「夫は私のことなんてちっともかまってくれませんでした」
「カメが大事だったんです」
ゾウガメの重く大きな甲羅は残った。今彼女はその扱いに困っている。
ダイヤが乱れている。駅は大勢の人で溢れている。列車の到着はまだ先だろう。
僕はベンチに腰掛け本を読みながら待っている。そこに電話がかかってくる。
「切符、買い取りますよ?」と男が声をかけてくる。「列車は来ませんよ、もう‥‥」
「何ですって?」
公衆電話のベルが鳴る。それはその男にかかってきた電話なのだと、僕にはわかる。
男よりも先に、その電話に出ようとする。僕は人混みを掻き分け‥‥
家に客。本棚に並んだ本を見て彼女は言う。「本屋さんみたい」
彼女が「これ、いただけますか」と選んだのは『星の王子さま』だ。プレゼントするよ、と僕は言う。
君が運転して、彼女を駅まで送る。僕と彼女は後席に乗る。彼女はそこから荷室へ移動する。「警察に見つかったら困るから」
事実、僕たちの車は検問に止められる。警官は言う。「トランクの中を拝見」
トランクの中にはマネキン人形が。金髪のカツラが振動でズレてる。手に『星の王子さま』を持っている。
目を覚ますと目の前で少女が寝ている。
僕たちの周りをまた別の少女たちが囲んでいる。
僕はスマホを少女の顔にかざす。すると少女が誰なのかわかる。
周囲の少女たちも全員チェックする。
全員が元自衛隊員だとわかる。
少女はまだ目覚めない。僕は彼女を起こそうとする。
すると周囲の少女たちが、僕の行動をまねる。
彼女たちは2人一組になって、1人は寝たふり、
もう1人は僕がやったのと同じように、寝たふりの相方の肩を揺さぶる。
坂を上がっているとき、君が僕に訊く。「私と犬と、どっちを選ぶの?」
「何のこと? 犬? 犬だって?」
「私よりも犬を選ぶっていうのね」
「どこに犬が‥‥」
君は道に寝転び、体をNの字に折り曲げる。僕も君の隣で、体をOの字に丸める。すると僕は転がり、坂のいちばん下まで落ちる。
僕は達成感を追いかけ、車で走っている。その僕の車を、疲労感は追いかけてくる。
疲労感は車には乗ってない。疲労感はそんなには速く動けない。でも疲労感はいつか必ず僕に追いつく。
そのあとで僕は、「また初めからやりなおそう」と疲労感に言う。
「なぁんだ」と疲労感は言う。「結局誰も追いつけなかったのか」
僕たちは歩きながら話した。主に君が話した。途中、雨が降ってきた。そのときも話しつづけた。
途中、僕は目を覚ました。現実の用事を済ませ、夢の中に戻る。また雨が降ってきた。夏の短い雨だ。君はまだ話しつづけている。
いちばん楽しい話は、いちばん長い話だ。
狭いドアが開いた。乗降口ではないところも開いた。乗降口ではないところは広く、その向こうには無限のお花畑が見えた。当然僕たちは、そちらから出た。君は笑顔になった。
みんなは狭いドアから出たようだ。同じところに降りたはずなのに、お花畑には彼らはいない。
僕は、僕たちをここまで運んでくれたその乗り物を振り返ってみた。
というわけでその日も、姉は一方的に喋りまくっていて、僕(弟)はそれを聞いていた。
路面電車の中で、姉が双子の弟に話しかける。
それはよくあることだった。反対に弟が姉に話しかけることはほとんどなかった。
姉はロックバンドのボーカルをしていて、美人だった。弟とはまったく似てない。元々は仲の良い姉弟だったので、2人はそれを気にしていたのだ。
突然、駅ではないところで電車が停まり、動かなくなった。
「降りよう」と姉は言った。
運転席の前方の窓が開いていた。「開くんだ、ここ」僕は驚いて言った。
僕たちは線路の上に降り立った。電車を振り返って僕はさらに何か話した。
姉は可笑しそうに笑った。そして「アンタのこと、好きよ」と言った。
言葉では言わなかったかも知れないが。表情で告げただけかも知れないが。
「髪をかきあげたら負け」というゲームを、茶髪の男のコとしていた。彼は負けた。何度も髪に手を触れた。
彼はもしかしたら何も知らないのかも知れない。このゲームのルールや、自分が負けたことさえも。
僕は自分が勝ったということを知っていたが、口には出さなかった。
何もなかったはずの家は、絵でいっぱいになっていた。家具の絵だ。テーブルの絵、椅子の絵、クローゼットの絵、ベッドの絵。画用紙に色鉛筆で描かれていて、それが家具のように配置されていた。
帰宅した僕に、君はキスした。なかったはずの2階も、絵になっていた。階段の絵を上って、僕たちは絵の中に入った‥‥
友人が本を出した。ダンスの本だったのだが、エロ本のような扱いをされた。そのせいかはわからないが、本は売れた。映画化もされた。そのときにエロ場面は削除された。ダンスのシーンまでなくなっていた。
ディナーショーの合間にお知らせがあった。水難事故の犠牲者の身元が判明したのだが、それは観客の母親だというのだ。「今からすぐに駆けつけますか?」と主催者はそのご婦人に訊いた。彼女はドレスのまま向ったようである。
隣の部屋では、デビッド・ボウイが、歌いながらパフォーマンスをしていた。少しずつ、少しずつ、彼は血まみれになっていく。あの血は誰が流した血なのだろう。血は彼の服を汚さなかった。彼の体だけが真っ赤に染まるのだが、服は最後まで綺麗だった。
仕事が決まった、休みを取ってよ、と言う君は、今の内に旅に出かけよう、ここから一緒に逃げだそうと、僕を誘っているのか。
何ヶ月か後には、にどと戻らないつもりだった出発点に、生活の場に、またいつものように、僕たちは帰ってくるのだとしても。
ピアノのコンクールで、審査員たちが僕をからかう。課題曲はショパンのバラード、僕はいちばん情熱的な演奏をした君に、スタンディング・オベーションで応える。
僕1人だけが、熱狂するので、
「あの横顔が可愛いコ、お友達?」
だが今年も、入賞者はなし。審査委員長は講評で、音楽とは関係ない話を始める。
あとでまた来ると言い残し、僕は君と抜け出す。2人で音楽の話をするのだ、午後の町を歩きながら、鼻歌でショパンを、口笛でブラームスを。
雨粒がいつもより速い速度で落下してきたように感じた。天気雨だった。顔を出したままの太陽の動きも速かった。このままでは1日は12時間くらいになってしまうだろう。
あっという間に日が沈むだろう。しかし空は2倍の広さになっていて、太陽が西の果てに辿り着くまでには、いつも通りの時間がかかりそうだった。
安心して昼寝することにした。その間中天気雨は降り続いた。
僕は‥‥
プールの底で昼寝をしていた。服も髪もびしょ濡れ。乾かそうと思い、プールから上がった。
すると天気雨が降ってきて、プールサイドにいる人たちを濡らし始めた。
みんな一斉に、プールに飛び込んだ。水が溢れたのは、そのせいだ。屋敷に浸水した、雨水とプールの水が一緒になって。
足元に転がっていた電球をいじっている内に時は過ぎて、それは自然に点灯したのだが、下にいる人たちは僕が点けたのだと思ったようだ。彼らは僕に礼を言った。
僕は自分がどうしてこんな高いところにいるのか思い出せなくて戸惑った。「僕は何もしてませんよ‥‥」
たしか車を運転していたはずだった。今は屋根の上にいる。彼らは僕に早く下りてくるように言った。
僕の名前が呼ばれたが、返事をしたのはロン毛の男性だった。その若い男が僕だった。ロン毛の脇には小柄な女性がいた。彼はその女を君の名前で呼んだ。
廃墟になったビルとビルの谷間に、そういうふうにして人が集まってきた。僕は若い頃の自分が、ビルを再建するのを眺めていた。そうしてできたばかりの部屋に、僕は君と入居したのだ。
シャワーを浴びて、君とベッドに横になる‥‥
すると建物はもういちど崩壊した‥‥
さっきのロン毛の男が、僕たちを掘り出した。そのとき、また僕と君の名前が呼ばれた。何回も、何回も呼ばれた。「僕はもう休む」とその男は答えた。「今度はあなたの番だよ‥‥」
それは水を入れる容器だ。プラスチック製のひょうたんを抱えた女性の集団に遭遇した。
1人知り合いがいた。彼女は妊娠中だった。僕は彼女の代わりに、ひょうたんに水を入れた。
「ありがとう」と彼女は言い、もう1つひょうたんを出した。「これは私がするから‥‥」
「これをどこへ持って行くの?」
その質問には答えず、彼女たちは道端に水の入った容器を放置して、そしてまた歩き出した。
その店は野外にある。屋根はない。壁も仕切りもない。しかし「店内」に入ると、そこはもう野外ではない。店の中には雨も降らないし、日も降り注がない。風も吹きつけない。
僕は野外を歩いている。突然空気が変わったなと思う。するともう店内なのだ。ここは何を売っている店なのかと思う。だが「店員」に訊いてみても、私は店員ではありませんという答えだ。おそらく彼女は客でもない。
どこまでが駐車場で、どこからが床屋なのかはわからない。駐車場の一画が床屋になっている、というわけではない。駐車場を横切り歩いていくと、いつの間にか床屋なのだ。僕は毎日、そこで髪を切ってもらっていた。
「昨日もいらっしゃいましたよね」と床屋のオヤジは言う。オヤジはトルコ人だ。
「来るつもりはなかったんだけどさ」
「1日でこんなに伸びるんですか? どんだけスケベなんですか(笑)」
「オヤジの腕が悪いんだよ」と僕は言い返す。
橋が落ちていたので川を歩いて渡った。水はそれほど深くなかった。なぜか足は濡れなかった。泥で少し汚れただけだった。
汚れを落とそうと水を探したが、振り返ると川は消えていた。水の流れはなくなっていた。そこはアスファルトの道だった。
黒い革ジャン。黒いヘルメット。バイクのタイヤはヘアブラシだった。これじゃ走れないでしょうとインタビュアーの女は言う。そんなことはないさとライダーは答える。
でも曲がれないでしょう、と女は言う。曲がれるとライダーは答え、実際にやってみせる。
隅のテーブルについたが食事は出てこなかった。そのテーブルで話している人たちは誰も何も食べてない。食べるつもりもないらしい。
昼食時の食堂には大勢の人がいた。全員が女性で僕の他に男はいなかった。場違いな気はしたが誰も僕を見なかった。
堂々としていればいいのだろう。僕は読めない字が大きくプリントされた黒いTシャツを着て歩いている。
7班に新しく人が加わった。20歳の大学生だという。可愛らしい女のコだが、眉毛に絆創膏を貼っている。理由は訊かないことにする。
7班の連中ははみ出し者ばかりだ。誰も時間を守ることを知らない。僕も遅れてやってきた。彼女の絆創膏の説明はもう終ったんだろう。
ヤクザがテーブルの上に広げた資料に僕は水をこぼす。一瞬の恐怖。しかし何も起こらない。液体は蒸発する。
ヤクザが濡れた紙を手で持ち上げると、滲んだ文字はすぐ元通りになる。彼は虫眼鏡を使って仔細を検証する。
7班の連中ははみ出し者ばかりだ。誰も時間を守ることを知らない。
誰も物語を知らない。そのくせ嘘は知っている。今日も1人メンバーがいない。
「どうしたんだろう」と誰かが訊く。
「どうせ物語だろ」と誰かが答える。
「後でまたあいつの『物語』を聞かされるのさ」「どうしたのかなんて、絶対に質問するなよ」
昼休みももう終わりだが、食事はまだ出てこない。7班のテーブルにだけ、食事がない。
班に新しく人が加わった。20歳の大学生だという。
手首を嗅いでみた。
僕を誘拐した犯人は、僕の手首に、香水をつけた。なんのつもりだろう、と僕は思った。
それから犯人は、僕を解放した。外に出ると、僕は、自分が嗅覚を失っていることに気づいた。
僕は自分がどんな匂いなのかわからない。みんながこちらを見ているような気がする。
さっきまでは誰もいなかった場所に、人が集まり始めた。
洋服を売る店だ。さっきまではそんな店はなかった。
店内に入った。商品は何もなかったが、僕たちが入ると、突然それが出現した。
綺麗に畳まれた、色とりどりの布。ただの布。でも僕たちが手に取ると、布はシャツになった。
そのシャツを着た人形が、僕たちに微笑みかける。
車が消えてしまう前に、車を降りた。ゴルフバッグのような、重い荷物を抱えて。その荷物を、柱のところに置いた。
荷物も、消えてしまうだろうか? 既に半分透明になっている(とりあえずここまでは‥‥運んだのだ)。
僕は、徒歩で先へ進んだ。
君の右隣に僕、左隣にマム、腕を組んで歩いた。
大きな駅の中を、そのときに君は言ったのだ、「マムは神経が細かいから‥‥」
僕よりも早く、君はマムと別れ、車内にいた。
階段を走って下りた。急いで切符を買った。君のマムに、ちゃんと挨拶できなかった。
君の着ている服は背中が大きく開いていた。それは屋根のない家のようだった。天井のあるべきところに青い空が見えた。向こうに白い空が見えた。その区切りはなかった。標識はなかった。どこからどこまでという制限がなかった。
何をしてもいい。君は言った。背中はそんな空のように見えた。僕はその中に入っていった。空を飛ぶときのように両手を広げた。
元日の朝、寝坊した僕に、届けられた新聞の、分厚いテレビ欄。
頁を開くと、僕の視線を追って、新聞は自分自身を読み上げた。
「今年は、そうね、大雑把に言えば、1年を通して、午後3時みたいな年」
壁時計に目をやると、2時半。まだなのか、もうなのか。
君は僕と読んでいる、新聞に火をつけて燃やす。
巨人が使う大きなトイレを掃除した。洗剤は使わなかったが汚れは落ちた。黒だと思っていたトイレは磨いていくと白かった。
白くなったトイレはずいぶんと小さくなったように感じた。もう巨人には使えないはず。彼らはまた別のところへ行ってしまうだろう。巨人とはいちども話をしなかった。
君はベッドの中で抹茶味の饅頭を僕に差し出す。僕はそれを食べてからもういちど歯を磨きにバスルームへ行く。戻ってきた僕に君はまた饅頭を1個差し出す。同じ緑色だが味は少し違う。歯を磨いたからだとは君の意見。
2階に干した洗濯物を取り込んでいるときテーブルに気づいた。ちょうど手の届くところに浮いていた。
強風にあおられ宙に浮いているのだ。庭の赤いテーブルだ。風がおさまった後でつかまえようと思ってずうっと忘れていた。
僕のものではない白い靴下があった。誰のかわからないがもらっておこう。白いソックスなんて高校生のとき以来だ。部屋には捨てたと思っていた服や本が大量にあった。不思議と懐かしい気持ちにはならなかった。それらは僕のものではなかったからだ。
後ろ向きに進むタクシーの後席では、あまり親しくない男が親し気に語りかけてくる。
月には塔があった。高く聳えていた。その塔の中の螺旋階段を上って、地球まで行くことができた。地球から見れば僕は下りてくるように見えただろう‥‥
「後ろ向きに?」
「そう、後ろ向きに(笑)」
そんな話だ。
手に鳥籠を持っていた。飼い主を探している。
「逃げられるかどうか試してみればいい」と男は言う。なぜ僕が逃げると思うのだろう。
僕は鳥籠の中に入れられた。「出たい」と訴えた。トイレに行きたかったのは本当だ。飼い主が鍵を開けてくれた。
トイレは急な階段を下りた地下にあった。「ついて来ないの?」と訊いた。「僕は逃げるかも」
「逃げられるかどうか試してみればいい」と飼い主は言った。
「試すまでもない」と僕は答えた。地下には下りなかった。ドアを開けて外に出た。手に鳥籠を持っていた。飼い主を探している。
後ろ向きに進むタクシーの後席では、あまり親しくない男が親し気に語りかけてくる。
路面電車に乗っていた男の息は臭い。彼は「店長」だとか。俺の店の周りを回れ、と運転手に言う。
線路のないところは走れません。運転手は答える。男は膝の上のハリネズミの背中を撫でる。
‥‥ほんとにあなたの店なんですか?
手は血だらけになる。「ペットショップだ」と男は言う。
パスポートをもういちど見せてと言われたので渡した。でも君はパスポートなんか見てなかった。君は僕を見ていた。
何でだろう。君はまた僕を見た。君はふと笑みを浮かべた。赤い表紙が溶けた。
君の前で僕は回転を始める。僕は何回転もする。
「何で回ってるの?」と君は訊く。それには答えず、もう一回転する。
ロッカーを開けていく。ロッカーの中には服があった。畳まれた上着と、ズボン。若い女性の着る服のように見える。どれも素晴らしく洒落ていた。無地のシンプルなものが多かった。その中に1着柄物の上着があって、目を奪われた。
僕は出すつもりだった返事や受け取った手紙を、全部まとめてその服の上に置いた。そして僕はロッカールームを後にした。
パスタを茹でるのに靴を履いた。僕は靴が好きだけど靴を食べることはできない。
だから履く。毎日必ず。
同じ靴を毎日履いている。家の中でも外でもお構いなし。ここは日本だ。季節は夏。でも関係ない。
昔ユーチューブでそんな人を見た。アメリカ人の女のコだった。3年間毎日履いたというドクターマーチンの8ホールブーツを前に喋っていた。
違うモデルだが僕の靴もマーチンだ。
僕は動画にいいねを押した。
「ここに1番好きな靴があるの」と彼女は言う。
「だから私は今日それを履く。日々は積み重なっていった」
白いハート型の泡が上昇する。
水の中ではすべての泡がハートの形をしているが、僕はなぜだろうとは思わない。
湖底に巨大なハートが沈んでいる。重量感のあるハートだ。
ハートの中には心がある。その白い心からハート型の泡が生まれる。
娘がテレビで野球中継を見ている。あまりにも汚いヤジを飛ばすので父親は注意する。
僕はその様子を少し離れたところから見ている。この父親と娘と僕はどういう関係なのだろう。
僕に背中を向けている。顔は見えない。
不意に「私にも汚い言葉を言って」と娘。
「そんな‥‥」
父親が振り向く。
履いていた靴の靴底が剥がれる。剥がれた靴底は白い砂になってしまう。突然僕は自分が砂浜にいることに気づく。
人気のないビーチ。遠くに王様がいる。僕は姫に会いに行こうとする。だが手に持っているのは花束ではなく砂だ。
賭けに負けた人たちが腐ってカビているように見えるミカンの皮を剥いている。
「カビなんか生えてない」と言って彼らは僕に1つ渡す。
僕は食べる前に味がわかる。ハエのように手で触れただけで味がわかってしまう。
奥には賭けに勝った老人がいて敗者を見ている。「まぁ、そういうことさ」
無理に思い出そうとしたせいで本当に見た気がしてくる夢もあるのだ。
無理に思い出そうとしたせいで本当に見た気がしてくる夢もある。これもその1つだ。
錯覚を正確に見ようとして、僕はさらに錯覚してしまう。そんな感じだ。
充分に暗いものが、もっと暗いものの影に入った。そうすると、そこは明るくなった。
暗闇の中で影が見える気がした。
僕はその影の中に入った。するとまた明るさは増した。見えなかった影が見えるようになる。その中に飛び込む。
‥‥最終的には僕は、光の中にいた。
暗い光の中の、明るい影。
「まだなの?」と君は訊く。
目を閉じたまま。
僕は答える。夜が明けると、いきなり昼だ。
敵があらわれると、ハリネズミは毛を逆立てて丸くなる。僕はそれを投げつける。何度か繰り返している内に、敵は来なくなる。
敵をやっつけた後で、僕が抱いてもいいように、ハリネズミは毛を寝かせている。これなら目に入れても痛くない。僕は頬ずりする。
読んだことのある本をもういちど読もうとすると、違う話になっていた。シンデレラは最初から王子様と結婚していて、それは結末しかない物語だった。私たちは幸せになるのだ。
どの頁をめくっても同じことが書いてあった。私は幸せなのだ、と。きっとこれからも永遠に‥‥
知っているのとは違う話になっていた。シンデレラは最初から王子と結婚していた。それは結末しかない話だった。どこから読み始めればいいのかわからなかった。
諦めてチョコレートケーキをうどんのようにずるずると音を立ててすすった。
「キリンの鳴き声を聞きたいか?」と男は言った。
彼は断崖絶壁の方に走っていき、眼下の町に向ってわめいた。
それがキリンの鳴き声だ。
するとその声を聞いた町中のキリンたちが、大合唱を始めた。
わかった。キリンはそんな声で鳴くのだ。
セミの声に似ていると思った。
道端で拾ったお札には名前が書いてなかった。僕は自分の名前を書き入れた。これでこれは僕のものだ。ペンを持っていて良かった。
すると僕にライトが当たった。光線銃のような光が僕を射抜いた。周りにたくさんの女の人が集まってきた。彼女たちは僕を囲んで勇ましい歌を歌い始めた。
家の外に、ポスターが貼ってある。男がやって来て、それをじっと眺める。土砂降りの雨、男は傘をさしていない。しかも、裸足だ。
僕は靴を脱ぎ、男に差し出す。「ちゃんと返しましたからね」と。男は無言だ。食い入るように、それを見つめている。
僕の若い友人が『うる星やつら』を読んでいた。読んだことがないらしい。
アニメより原作のコミックがおもしろい、僕が言うと、彼も同意した。
ところで僕も別のマンガを読んでいたのだが、最後まで読み進んでも、物語はいっこうに始まらなかった。
僕はその本を本棚に返した。話は本当にこれで終わりなのだろうか、と思いながら。
けど僕がマンガを読むのと同じように、そのマンガも、僕を読んでいたのだ。
何がおもしろいのかわからないな、と僕は吐き捨て、本を閉じた。
同じように本の方でも、僕を閉じたのだ。
それからずっと、時間は停止していた。誰ががまた僕を読もうと、手を伸ばしてくるまで。
読んでいたマンガを最後まで読んだが、話はいっこうに始まらなかった。話は本当にこれで終わりなのだろうか。
本棚に戻した後で、やっと話は動き出す。だが僕がもういちど手に取ると、それはまた停止する。
踊りながら彼らの身の上話を聞く人々の足元を四つん這いになって抜ける。壁際を見上げると背の高い男の人が立っていた。
彼は二足歩行に切り替えた僕より頭1つ高い。
男の頭の上にはもう1つ別の頭が乗っている。そのもう1つの頭は僕をダンスに誘う。下にある頭はそっぽを向いた。