ダリと天才、紙一重
馬鹿と紙一重と言われる多くの芸術家たちの中でも、サルバドール・ダリほどそこに接近した才能はないだろう。20世紀の画家とは思えぬ古典的な描写力。卓越した絵画テクニックと自己プロデュース能力をあわせ持ちながら、ダリは自ら望んだ「天才」になることは決してなかった。何故か?
「私自身と狂人との唯一の違いは、私は狂っていないということだけだ」‥‥いささか道化じみた「天才」としての振る舞い、繰り返される奇行はすべて計算ずくだったということだが、ではこの人は何故そこまでして「天才」になりたかったのだろうか?
1936年、ロンドンで開かれた国際シュルリアリスト展に、ダリは潜水服を着て、2頭の大型犬を連れて現れ講演を行った。話が聞こえない、と誰かがヘルメットを取り外さなければ、危うく窒息死するところだったという。だから何故? そこまで過激に演出してみせなくても、アナタが"あの"ダリだってことは、みんな良く知ってますって‥‥
意識的に描かれた無意識。精神の異常をきたすことなく生みだされた狂気。‥‥このパラドックスを絵画として実体化することにダリはある程度まで成功している。ある程度までは。圧倒的な描写力を以て、彼が迫力のある存在感を付与しようとした不条理のイメージは、しかしあまりにも大袈裟にすぎたのだ。悲劇はそこにある。
狂気や不条理って、そんなに大それたモノではない。誰の心の中にも当たり前のように存在している、でしょ? 少なくとも僕はそう思っているのだが。
ダリもたぶん、馬鹿がつくほどに真面目な人なのだろう。目に見えぬ「狂気」や「不条理」は、ここまで大仰に表現しないと伝わらないとでも思ったのだろう。
んなことないっスよ。
「狂気」にそれなりの迫力のある現実感を付与しなければ他者に伝達することはできない、と固く固く思い込んでしまった自分自身、その強迫観念にこそ、ホンモノの狂気は潜んでいる‥‥
そこらあたり、馬鹿っぽいアピール抜きで「等身大の自分」という狂気を率直にさらけ出すことができていれば、ダリは本当の「天才」になれたかも知れない。トム・クルーズの記事(4/28)で述べたのと同じ種類の悲劇がここにもある。自己プロデュース能力を併せ持った現代の巨大な才能は、すべからくトム様に接近するのだ。
あぁ、逆。ダリに接近する‥‥の間違い。
ヒッチコックの映画『白い恐怖』の中の、悪夢のシーンはダリの担当だ。このコラボレーションでは、ダリの濃い〜ぃ俺様アピールは完全に影を潜めている。映画という現場でヒッチコック監督に気を使ったのだろうが、控えめにやってもこれだけのことができる人なのだ彼は。
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コメント
素敵な記事ありがとうございます。建築を大学で学んでいて、渋谷の宮下公園に美術館を設計するという課題がでました。
私はそれをダリのための美術館にすると設定していまとりくんでいます。どの画を置くなどは自由です。(想像上の設定なので)
なにか”このような美術館だったらいいな”というような意見をいただけたら光栄です。よろしくお願いします。ダリのユーモアを存分に表現できるような美術館にしたいと考えております。よろしくお願いします。
投稿: wm | 2008年11月11日 00:46