ブログと個人情報と
あけすけなブログは危ないという。個人情報という観点から見て無防備だという。記事内容から個人を特定されストーカーまがいの被害にあうケースも出ている、と。
馬鹿という表現は敢えて避ける。ブログ脳か? 僕に言わせればどこの世界の誰に向けた話かと。この人たちは、何だ?
☆
「あなたは誰ですか?」
☆
こう訊かれて職業を答える人がいる。
所属する会社や役職、出身校や学歴。
得意げに語り出すターとかナーとかのクリエイティブなお仕事。
星座や血液型の話をする女性ならまだ可愛い気もするが、共通一次の英語で何点を取ったか、自慢し始めるお偉いさんまでいた。
もちろん僕が聞きたかったのはそんな話ではない。
だいたいにおいてブログは危ないと聞かせれ自分を隠すようになったらとたんに話が紋切り型になってしまうようなそんなチープな、アナタの個人情報にいったい何の価値があろう。
阿呆という表現は敢えて避けるが、僕に言わせればどこの世界の誰に向けた話かと。この人たちは、何なんだ?
☆
「あなたは誰ですか?」
☆
まぁいい。すべては他人の話だ。情報以下の紛うことなき。僕の脳内戯言探知機がピピピピとでかい警報音を鳴らすが、そんなもの聞きたくない。
僕はぼくの話をする。
僕はぼくの声が聞きたくて、ここはぼくのWeblogで、これは僕の王国だ。専制君主として僕はぼくに要求する。
オ マ エ の 話 を 聞 か せ ろ 、 と。
↓
記事内容からは少し離れてしまうような気もしてたいへん恐縮なのですが‥‥ぼくは「自分になる」ということが、こう、いまひとつ上手くできないというか、ぼくの言葉や考えが、どうも自分自身と乖離しているような、そんな気がいつもしています。
ぼくと僕がダイレクトに繋がっていないような‥‥
以前自分のブログにも書きましたけど、夢を見るときも、自分が主人公の、「自分の体験」というかたちの、普通の夢が見れないんですよ。
意識が、瞼の裏側に残っていて、ぼくはテレビか映画をみるような感じで、客観的なストーリーとして夢を見る。飛ぶ夢って、ありますよね? あれ、普通は自分が飛ぶんですよね。ぼくは違うんですよ。夢の中に主人公がいて彼(彼女)が飛ぶわけです。
それをぼくは「こちらがわ」から眺めている‥‥
これって、精神医学の世界ではよくある事例なのでしょうか?
名前: ぼく | 2005年10月15日 午後 07時20分
・
うーん、難しいコメントですねぇ。
私は夢分析に関して素人ですから、お答えするのは難しいのですが‥‥
一晩考えました。
考えながら寝ていたら、夢を見ました。夢の中で「そうか!」と解ったことがあったんです。それで、「忘れないでおこう」と思って、何回もその考えを繰り返し思い出しながら寝てました。
朝になってみたら、キーワード以外は全て忘れていて、何のことだかさっぱり解らなくなりました。
キーワードは「主観的な時間の感覚、主観的な距離の感覚」です。何のことだかわかりませんね。(笑)どうも、私の無意識は「主観」ということが言いたかったらしいです。
こんな夢を観る人もいます。精神医学的にはどうなんでしょうね?(翌日の講義案ができていないのに寝てしまったときは、こういう夢をよく見ます。)私が「自分自身を保つ」「自分自身に戻る」と表現するとき、自分の体の中心に意識を向けている状態、自分の意識と体がしっくり馴染んでいる感覚をイメージしています。
ぼくさんのブログを読ませていただいていると、とても知的な方なんだな、ということが解ります。どちらかというと、ディソシエイトするのが得意ではないですか?
ぼくさんは、ぼくさん自身が感じる感覚を信じればいいのだと思いますよ。
「ぼくの言葉や考え」が浮かんできたら、それをそのまま味わってみるというのはどうでしょう?
それでもやはり「乖離している」と感じられるのであれば、「乖離している感じ」が身体のどのあたりでどのように感じられるのか、あるいはイメージとして像を結んでいるのか、音を伴っているのか‥‥「乖離している感じ」を、分析することなく、ただ感じてみる。これはフォーカシングの手法ですが、何か面白い発見があるかも知れません。
自分が主人公の夢を見られるようになるかどうか、それはわかりませんけれど。
名前: NLP−erまき | 2005年10月17日 午前 12時19分
・
ある種のものごとはぼくの主観から、時間的にも、距離的にも等間隔でリアルタイムの像を結ばないらしい。
それはぼくが「普通」と認識している何かで、ぼくはそれを意識から少し外したところで目に映す、らしい。
ワケわからんこと書いてますけど。(笑)とりあえずそういう発見がありました。
まきさんの夢の話も、おもしろそうですね。
名前: ぼく | 2005年10月17日 午前 07時35分
・
むむぅ。
またまた難しいコメント。
「ぼくウェブ」の記事も、なにやら象徴的な文章‥‥
良かったら今度「ぼくウェブ」の記事として詳しく語ってください。
名前: NLP−erまき | 2005年10月17日 午後 06時50分
・
だから左右の目にはほんの少しずれた違う像が映っていて、それを頭の中でひとつに繋げることによって、僕たちは世界を「普通に」立体的に捉えてるわけですよね。
ぼくは自分が「普通」だと認識したものに対して、時間的にも、空間的にも等距離を置いてしまうんですよ。結果「ふつう」を「普通」と意識できなくなり、齟齬は生まれる。
‥‥なんのこっちゃ。
そしてぼくは僕から離れていく。詩です。ただの「イメージ」です。分析するなって言ったじゃん(笑)
名前: ぼく | 2005年10月17日 午後 08時56分
☆
自分の社会的な役割に、豚が子を産むように「普通」に、疑うことなく自己を同一化できる。
それはそれで、とても幸せなことだ。
たいして好きでもない仕事にいつの間にか長じ外面を内面の顔としてしまえるアナタは‥‥
☆
あるいはアーティストならば、その作品が自己だという。

1927年『スピード1』by Louis Icart
過去の作品は、それをつくった当時の精神で、自分が生きた時間を実感できる物的証拠であると。

1933年『スピード2』by Louis Icart
「普通」に言えばたぶんそういうことなんだろう。でも違う。羨ましいという表現は避けるが、僕に言わせればどこの世界の誰に向けた言葉かと。ナーの絵はターではない。アナタの音楽は心と無関係に鳴るし。僕の言葉は嘘で、写真までもが真を写さず、インターネットはぬかに釘で。
どこまで行っても世界はのれんに腕押し‥‥
☆
僕は事実に依存しない正しさについて書く。
2行前の過去と無縁の正直さについて書く。
☆
だから、悪いけどさ、アナタには嘘をつくよ。言葉に安い一整合性を乗せない。じゃそれは、どこの世界の誰に向けた言葉かと言えば、僕はたったひとりの読者に向けて書いている。10年後か、20年後か、ぼくのWeblogのアクセスが完全なゼロになったとき、ぼくが僕の言葉をもういちど読めるように書いている。ぼくが僕を笑う、そのころになってやっと、僕はぼくを夢に見られると思う。
というかそれが夢だ。
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コメント
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投稿: ぼく | 2005年10月19日 20:09
自己開示するということは、いわゆる個人情報の開示ではないのですね。
ある意味「超」個人情報なのかも。
投稿: NLP-erまき | 2005年10月20日 00:23
死語のまきさんとしては「超」ではなく「メタ」と言ってほしかったですね(笑)。
記事には小賢しく加筆修正しております。m(__)m
思わせぶりな文章をしばらく続けて、「考えておいてね」と時間を与えるような。相手にし得る最も酷い仕打ちのひとつは、その気もないのに気にかけているふりをする、ことだと思っています。ぼくはそうじゃない、「絵でも映画でもネット上のテキストでも何でも、とにかく人間を感じるものを好み・欲している(コメント引用rrnさん)」わけで、なにより自分に対してね、そういう人間でありたいと思っているのです。
とても難しいことです。その意味で夢です。さらけ出した「自分」はすぐに別のものになってしまう。「ぼく」は「僕」になりたがる。
(普通になろうなんて考えちゃだめ)
投稿: ぼく | 2005年10月20日 01:23
半ば私信、と題されたぼく宛ての文章が、こういう、半ば公の場で読めることを、とても贅沢に思います。
☆
http://d.hatena.ne.jp/rrn/20051016/p2
☆
私の絵は私なのです。そのまま、私なのです。
「言葉」は予め伝える事を目的に作られる、伝える為のものだと思っています。その相手は時には自分だったりもしますが、ほとんどの場合、他者です。
しかしながら私の「絵」は、誰かに何かを伝える為に描くものではなく、自分の為だけに描くものです。というか、そうでないと描けません。気持ち悪くて。不純な気がして。私の絵は、私の為だけに、私によって描かれるものでなくてはならないのです。何故なのかはわかりませんけど(笑)
☆
10年後20年後の自分に向け書いた、これまた私信のような、ぼくの記事が、「独り言のキャチボール」として成立していることにも、不思議な印象を受けます。
これが「ブログ脳」ということなのかも知れない。ヤられてるのかも知れませんね。
rrnさんの発言を受けて、というわけではなく、ただの偶然なのですが、記事本文を小賢しく一部修正しています。参考までに元の文章では「アナタの絵はアナタではない」「言葉に一個人を乗せない」と、そうなっていた箇所です。
☆
「あなたは誰ですか?」
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私は自分だけを見つめながら絵を描いています。そしてそれが完成し、作品となった後、人にゆだねられて言葉になる事もあるのですが、私は絵が言葉になる時の事を考えて絵を描いてませんし、描けませんし、半ばどうでもいい事です。伝えたくて描いてるわけじゃないからです。これは自分が未熟なだけかもしれないですし、もしかしたらずっとこのままのスタンスで描いてゆくのかももしれないし、ある日突然変わるのかもしれないし⋯まぁ生きてみないとわかんないわけですけど、そんな感じなのです。
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もしも「絵」が、その問いに答えられたとして、しかしそれはひょっこりひょうたんからコマであり、棚から牡丹餅であると、たまたまだと。だからこそ、嘘はないと。
ないとまでは言いませんがね、罪は軽いと。
逆に「言葉」は、予め伝える事を目的に組み合わせれた、伝えるためのものであり、故に、嘘になる、とても容易く。「思考を決定する道具であって、思考を伝達する媒体ではない」はずの言葉に、意味を乗せるのは欺瞞なのでしょう。
ましてやそれを「伝達」しようなどという行為は‥‥
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「あなたはどんな人ですか?」
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もちろん、自分の絵が言葉として活かされた現場を見ると、副産的ではあるものの、物凄く嬉しいです。自分が自分の為に自分の内面を外に出したものが、人に見てもらった時に伝わったりしてて、更には喜ばれたり、感動してもらったり⋯これはもう、にこにこ! 何というか、自分のそうゆうこだわり?プライド?性質?があるからこそ、人を感動させるような絵も出来ると思ってます。
とにかく私はただ描くだけ。ただただ、自分を知ろうとしながら、自分を表現してゆくだけ。今はそれでいいと思ってます。単純に絵は絵でいいって事にしてます。
☆
けど、言葉は言葉でいいよってことにはならないのが「言葉」であり、難しいところですね。
自分を知ろうとしながら、自分のためだけに書いた言葉にも、ちゃんと意味はあり、伝達もされていく。
言葉には否応無しに個人情報が乗っかっていく‥‥
しかしぼく自身、それをポジティブに捉えているからこそ、これをwebに公開しているわけで。10年後の自分に向けて書いたというのは、それもだから、半ば嘘です。言葉が、先ず、rrnさんや、まきさんに届いたことを、心から嬉しく思っています。
投稿: ぼく | 2005年10月20日 17:06
>死語のまきさんとしては
>死語のまきさんとしては
>死語のまきさんとしては
・・・。
投稿: NLP-erまき | 2005年10月20日 18:21
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ぼくさん、まき先生悩んでるよ。
あーあ。
投稿: ヤヤー | 2005年10月20日 21:15
死語とおやじギャグとは接近することを発見した。
例、「住めば都はるみ」
☆
ところで計画の目標方向に必ずしもストレートに向いていない半端者(オッドマン)をチームに加えることによって、かえってその計画・研究がスムーズに進むということがあるらしいですね? 余談にも存在価値はあり、何にしても「別に関係ないっスよ」ということはないのだと。というわけでまきさんの研究室にオッドマンとして入れてください。仕事は‥‥なんかおやじギャグを述べるとか、死語を語るとか、そんなんでよろしく(笑)
投稿: ぼく | 2005年10月20日 23:29
歓迎します。
投稿: NLP-erまき | 2005年10月21日 17:13