ニ卵性双生児のウロボロス
パトゥーカの古い伝説によると、ひとりで死を迎えることになる男のもとには、死の使いが訪ねてくる。死を怖れぬように、という配慮なのだが、それは別れた家族や、古い友人の姿をしている。
使いは彼に付き添い、今際のときには覚悟を決めさせるのだ。
とりわけ孤独な死に方を運命づけられた若者の前に、死は絶世の美女としてあらわれる。その魅力は、若者の魂を、すぐそばまで来ている運命に惹きつけるために特別につくられたものなのだ。
女は言う、あなたに不運を願っているわけではない、と。
ただ幸運を祈ることができないだけ。
そこに選択の余地はない。
もしあなたにとって私が死であるならば、あなたが愛しているのは死なのよ。
愛が私たちを待っているわ。
恋人たちの心臓が歓喜の絶頂で止まれば、それが死だ。命ある世界はもはや、死の土台の上に広げられた女の薄衣のようなもので、若者にそれを剥がずにいることなどできない。
では、ナルシストの僕には誰が? 死は美貌の青年だった若き日の「ぼく」に姿を変え? あるいはこんなウロボロス、生と死はメビウスの輪のように絡まり、互いを喰らう、あまり似てないニ卵性双生児なのかも知れない。
僕がぼくに食い尽くされるころには僕もぼくを飲み込んでいる。
「死」は他者によってのみ知覚されうる、僕たちは決して自らの死を知ることがない。その瑕ひとつない完全無欠の原理は、だからこそ、今もなお多くの人を魅了し続ける謎なのだろうが、このようにナルシズムは死を内包していて深く、つまり僕が自家撞着的に思考する「終焉」のイメージが、これだ。
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それを否定することは、たとえそれが死の姿をまとってはいてもだ、生を否定することに繋がる。君は極めることの秘密を生涯知ることもなく、ただ幽霊のように彷徨い続ける。
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ところでウロボロスがどうしても「ウロロボス」になってしまう件について報告。原因はロスロボスにあると今日気づいた。ラ・バンバを歌っていた。ラテン系の。
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