イタリアのサッカー選手に筋萎縮性側索硬化症を発症する人が多いのはなぜか
今年3月、地方紙の、これまた片隅に小さく掲載されていた記事。読んで僕が思ったのは、これはサッカー以外の何かが因子として絡んでいるぞ、と。タブロイド紙ならまず間違いなくドラッグ、ドーピングの悪影響を書き立てるところだ。
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イタリアのプロサッカー選手は、全身の筋肉が徐々に動かなくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)の発症率が平均の6倍になっていることが、同国トリノ大などの研究チームの調査で判明した。ALSの発生が特定のスポーツ集団で高いことがわかったのは初めてだ。
調べたのは1970〜2002年にサッカーリーグのセリエA、Bでプレーしたプロのイタリア人選手7300人余り。イタリアの平均的な発症率からは、この期間中のALS発症は0.8人にとどまるはずだが、実際にはその6倍の5人が発症していた。発症年齢は平均43.4歳と通常の患者より20歳も若く、プレー期間が長いほど発症の危険が高いこともわかったという。
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‥‥というかそれ、「筋肉増強剤」以外に何があるというのだろう。ボディコンタクトの激しいセリエAのプレースタイルに原因が? イギリスやフランス、ドイツのリーグでも調べてみれば面白いと思い、続報をずっと待っているのにそれきり医学界からは音沙汰がない。
とにかくセリエA。きな臭すぎて、ウォッチしている分には興味深いが。『悪魔のパス 天使のゴール』(註1)。謎のドーピング剤は「アンギオン」だっけ? 村上龍でなくても、そんな小説のひとつやふたつ、書きたくなってしまうというものだ。
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コメント
というわけで今日はこの小説、『悪魔のパス 天使のゴール』を読みましたので感想など自らコメント。村上龍、相変わらずトンデモないです。
この人はもう、ミーハーというか、話をスポーツだけに限ってみても、テニスが流行ればテニス、F1が来た、と思えばF1、そしてマッケンローであったり今は亡きセナであったりと、その時代のいちばん美味しいところを体現しているそのスポーツの、いちばんトンガったプレイヤーを神と崇め、一方で表現のネタとして取り込んできた作家なんですけど。ここ最近の先生の興味はもちろんサッカーです。プレイヤーはナカタです。てなワケで『悪魔のパス 天使のゴール』、読み始めてすぐに、というか読む前から既に、主人公のモデルはナカタだとわかります。主人公の所属するチームはペルージャでしょう。語り手の「わたし」はもちろん村上龍本人。本人、そうしたすべてを否定していますが、嫌味を通り越して別の次元に到達しちゃってる感じですね。ストーリーの設定、展開はきわめて安易。結末はいい加減。謎のドーピング剤アンギオン? んなこたぁ、どうだっていいんでしょうね。クライマックスのサッカーの、その試合のその描写、それだけをやりたかったという小説だし、とにかくそれは凄まじい。言葉でこんなことができるのか、これって本当にただの「言葉」なのか。
もしも「小説の学校」というものがあるとして(いやもしもじゃなくって最近はそういう学校もあるんですよね)、ぼくがそこの講師だったら「描写」の時間のテキストにはこれを使う。これを100回書き写して来いと。普通の人間が文化的な最低限の生活をする分には、この描写力の1/100もあれば充分だし、文筆で生計を立てていくのだって、龍先生の描写力の1/20があればとりあえずそれでいける。書きたいことは何もない。伝えたいことも何もない。言いたいことが何もない人だってこの描写力があれば何かを伝えられるんですよ。この人にはもう、だんだん小説を通して伝えたいテーマとか、モラル、良心、そんなものはなくなってきているんでしょう。日本と世界がどうしたこうしたといういつものアレだって、要するにたんなる嫌味だし。そういう個人が誰よりも強大な「伝える」力を持っているという。『悪魔のパス 天使のゴール』。村上龍。その意味でとても現代的な小説であり、小説家です。世界の中の村上龍の評価って、どうなっているのか謎ですけど、もしぼくがノーベル賞の選考委員なら次の文学賞は龍にあげちゃう。好 き す ぎ る。
投稿: ぼく | 2005年12月12日 18:36
誰もが言っているんでしょうが、オリンピックやワールドカップなどの度に、
いっそのこと正々堂々とドーピングオリンピックやってどこまで人間やれるもんなのか
やってみればいいじゃないか と ひどいことを
考えてしまいます。
今頃、村上龍氏の「半島を出よ」を読み始めています。すぐ間があいてしまうので全然読み進めずにおりますが彼は時代の波というか流れを読むのがうまいちゅうか、その嗅覚が鋭すぎる方ですな、けっこう脱帽してます。
投稿: くるっぱー | 2005年12月13日 03:07
「描写」とは主観と客観のあいだにある隔たりを観察を以て埋めていく作業だと思うのです。自分を世界と繋ぐ手段であると思うのですが、村上龍の鋭さってその観察の鋭さでしょうね。それを思いっきり嫌味に感じることも多いですけど、先ずは揺るぎない「自分」がある。視点がしっかり定まっているから「ものごと」が見えてくる。取材がいきるわけだ。
彼が世界とシンクロするパターンには2通りあって、ひとつはくるっぱーさんの読んでいる『半島を出よ』のように、始めからそれを意図したもの。もうひとつは今回の『悪魔のパス 天使のゴール』 → イタリアサッカー界ドーピング疑惑、『イン・ザ・ミソスープ』 → 酒鬼薔薇事件、のように、その観察眼がたまたま現実の事件を先取りしてしまったというもの。どちらかといえばぼくは後者の村上龍のほうが好きだったりします。
ドーピングのお話ですが、たとえば陸上100m走の。記録が伸びている分ってあれは、トラックやシューズなど、あるいはトレーニング方法の、技術面での進歩が上乗せされているだけであり、ベースの人間そのものの力は50年前から何も変わっていないという説もあります。頭痛にバファリンを飲むことにすら抵抗を感じるぼくであると前置きした上で敢えて言いますが、そんなふうに考えてみると「薬物」ってどこまでが悪なのかなぁ、と思ったりもしますよ。開き直ってこれも一種の「技術」かと。
そもそも激しいスポーツはすべて体に悪い。プロのスポーツ選手って、はなっから不健康なことをしているわけですよね。もちろん中には本人の意志と反してヘンな薬を飲まされちゃったというケースもあるでしょうし、そういうのは問題だと思いますが、だから「ドーピング・ワールドカップ」なんてのは、プロスポーツの本質と照らして正道である(かも)。「健康的なアスリート」というほうがむしろ形容矛盾か知らず。そして五輪が建て前としてアマチュアリズムを掲げるならば「ドーピング・オリンピック」というのは‥‥? でもドーピングはなくならないでしょうね。
投稿: ぼく | 2005年12月13日 16:21