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2006年3月29日

ユーモアのセンス

 僕以外の誰かが、それ以外の言い方で同じことを言ったら、あなたは傷つき、彼を憎むようになるかも知れない、というぎりぎりのエッジで発せられた皮肉、それが僕の考えるセンス・オブ・ユーモアである。実のところ「笑い」とは、まったくもって個人的なものなのだ。


 父と僕が共有できなかったものは多いが、その最たるものがこの「笑い」の感覚だった。父はよく笑った。なぜそこで笑うのか、僕にはまるで理解できないところで笑った。幼い僕にその父の笑顔や笑い声は恐怖だった。怒鳴り声や、怒った顔はもちろん怖い。でもそれには納得できる理由があった。どんな不条理であろうとも、父は僕の何かに腹を立てたから怒ったのだ。


 僕は悪いことをした、そう思えば良かった。


 しかし父の笑顔には納得できる理由がなかった。何か嬉しいことがあったから父は笑ったのだとは思う。僕の何かかが、父を喜ばせたのだろう。でもそれは僕に、まったく心当たりのないことだった。父の笑顔は僕のしたことと関係がなかった。笑い声は別世界から響いてきた。僕は良いことをした、むりやりにでもそういうふうには、決して、思えなかったのだ。幼い僕に父の笑顔や笑い声は恐怖だった。むしろ怒られたときより、僕は父に対して申し訳ないような気分になるのだった。


 それで僕は、学校の仲間とのコミュニケーションの鍵は「笑い」にあるということを無意識の内に知ったのだろう。ある集団に受け入れられるためには、まず「笑い」の感覚を共有することだ。家の外では僕は積極的に笑った。つまらないところでも笑った。明らかに面白くないとわかっていることでも、それを仲間が面白がっているのだとわかる場合には必ず笑う。


 僕は神経質なくらいいつも集団の笑いの基準を気にしていた。


 しかし、僕がそこに神経質になっていることを悟られてはならなかった。気取られたら最後だ。僕がその集団に属しない、別世界の人間であることがバレてしまう。集団内にいる「別世界」の人間は暴力の対象になった。初代の金八先生が放送されていた当時の東京近郊の公立校、と言えば、今の若い人にもその雰囲気は伝わるだろうか? バイクで廊下を走り回る生徒。警察官の監視のもとで執り行われる卒業式、というのも、フィクションの世界の出来事ではなかった。


 校内暴力が社会問題となっていたあのころの僕は中学生だった。笑顔は恐怖それ自体であることを超え、暴力を誘発する何かに変わった。僕は父の笑顔を嫌悪するようになったのだ。父の笑い声を聞くとひどく不愉快になった。暴力的な気持ちになることもあり、それは現在も続いている。


              ☆


 それでも、社会に出るとすぐに、僕はこの世界はそうした排他的な笑いで満ちていることを知った。99%は理解できず、僕に暴力のシグナルとして伝わる。折しも第何次目かのお笑いブームだというが、今も昔も笑いは僕の理解を超えている。ユーモアのセンスは、集団の中で個として生きていかなければならない、僕のような人間にとっては潤滑油となり得る、身につけることに意義はあろう。それでも「笑い」そのものは危険だ。その笑いこそが人を選別するのだ。人の笑顔と、笑い声に満ちた世界は危険だとの認識が僕にはある。そしてその危機にはユーモアのセンスでは対処ができない。


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 お前には「本当に」ユーモアのセンスがないな、けど成長した僕に向かって逆に父はそう言うのだ。


 お前が人生に太刀打ちできないでいるのは僕に「本当の」ユーモアのセンスがないからだ、と。


              ☆


 酒好きの父は、飲みながら息子の僕と人生を語りたかったのだと思う。男同士にだけ通じるようなジョークを交え、狭い世界のいろいろを話し合いたかったのだと思う。僕は酒を飲まない。飲めない、のではなく「飲まない」。父に似てアルコールにはやたらと強いが酒の味が嫌いなのだ。


 それを聞いて、父は何か複雑なジョークだと思うのだろう、笑う。


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コメント

笑顔は本来、サルがキバを向いて威嚇する表情からうまれたものらしいですしね、いや、冗談じゃなく笑。
この文章は、自分はとても好きです

投稿: ハラキリ | 2006年4月10日 09:12

 笑っている人って、怒っている人と同じくらいぼくは怖くて。
 と、いう話をするとまた笑う人もいるし(笑)

 猿の牙うんぬんの話は聞いたことがあります。


投稿: ぼく | 2006年4月10日 20:19

初めまして。
時々、読ませて頂いておりましたが、初めて書き込みます。

「笑い」は、人を選別する。
その通りだと思います。
本人たちの間で自己完結した笑いは、笑えない人にとっては、とても残酷なものですよね。

例えば、何かを「変」だと感じた時、笑いがこみ上げます。
でも、それは同時に、それを「変」だと思っていることの端的な意思表示でもあるわけで、
その態度は、「それは変だと思う」ときちんと説明するよりも(場合によっては)残酷だと言えるような気がします。

「酒が飲めないのではなくて、味が嫌いだから飲まない」
と言うのを聞いて笑うのも、もしかしたら、
「変わった奴だなあ」
と思って笑っているのかもしれません。
照れ隠しや、気まずさを誤魔化すために笑っているふりをする場合もあるので、何とも言えませんけど。

ともあれ、「笑い」は時に残酷です。
でも、笑っている本人にとっては、他の何ものにも代え難い「救い」となることもあります。
例えば、「死」をネタにしたジョークが多いのは、「死」に対する恐怖を克服するためのものではないか、と思うのです。

どんなに巨大な権力も、どんなに残酷な真実も、
ひとたび笑い飛ばされてしまえば、
少なくともその瞬間だけは、その影響力は無になってしまう。
・・・そういう大きな力が「笑い」にはある、と僕は感じています。

投稿: まこっちゃ | 2006年7月30日 18:40

思うのは、ぼくの目の前にあらわれた誰かが、最初にぼくの笑いをとろう
としたら、

その人はもう、‥‥信頼できないな。

そうではないやりかたで信頼を勝ちとることができたとき、はじめて、ぼくも誰かを、笑わせることができるでしょう。


投稿: ぼく | 2006年7月30日 23:10

ひょっとしたらあなた他人を怒らせる様な発言がオモシロイと思っていませんか?そして、あなたのその不可解な発言に対し笑った人間を選別していませんか?孫子だったかな「相手を知るにはその相手がなにに対して怒りを覚えるか知れ」といったのは。「笑いをとる」のもひとつの手段。つまりあなたに対して「挑戦」しているということ。だから信頼できないのは納得できます。でもあなたを知ろうと挑戦しない人をあなた信頼できますか?あなたは問いかけをしない他人に自分をさらけ出すのですか?あぁ、書いててはずかしい。自分のことだ。

投稿: えまな | 2006年11月 9日 06:32

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