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2006年3月14日

日本のロックといわゆる「応援ソング」が嘘臭いのはなぜか

1、

 

 要するに僕が言いたかったのは「共同幻想否定」みたいなことかなぁ、などと何日か前の記事を読み返して思っている。すべての共同幻想を否定するわけではないが、少なくとも「プロジェクトX」程度の安い幻想を共同幻想として僕は認めない。だいたいにおいて中島みゆきの歌うあの主題歌からして安っぽいではないか。

 

 あまりにもあんまりにも。

 

 

              .

 

 

 ところで爆風スランプのデビュー・アルバムに入っていた「週刊東京少女A」という曲があるのだが、それを例外的な例としながらも、日本のロックは嘘臭い、それは日本のロックが「ストリート」をリアルに歌えていないからだとする説を、20年以上昔だが、読んだ。玄関の扉を出るとそこはもう「ストリート」、という環境は現代の日本でも極めて稀で、日本のストリートは、つまり「私」と「街」を直結していない。

 

 日本には共同幻想としてのストリートそのものがないという理屈だ。

 

 

              .

 

 

 なら例外的に「街と直結した私」の、ストリートの例として挙げられた「週刊東京少女A」はどうなのか。そこで歌われていたのは、グンタマ・チバラギのどこか田舎に住む「私」が、週にいちど、電車に乗って憧れの東京に遊びに行くという物語だった‥‥

 

 

ナンパなんかされたら 無口なふり装うの
ハイとイイエで決めて 訛りだけは気をつけて
週刊東京少女A とんでもないわ
教えられないわ 十桁もあるテレフォンナンバー

 

 

 田んぼの中を走るイナカの電車が「ストリート」だ。結局のところ、このように見事「繋がった」ストリートのある風景を、コミック・ソングの中でしか歌えないというあたりが、日本のロックの限界だというのだ。

 

 

              ☆

 

 

2、

 

ふさぎ込んでないで、お茶でもいれよう
最低な気分から抜け出すんだ みじめな気分にひたってないで
目が覚めてもおろおろと 過ぎたことにばかり気をとられてる
自分のケツに蹴りをいれて ベッドから出て空に向かってパンチするんだ

 

朝ご飯が終わったら 希望がいっぱい待っているのかな
朝ご飯が終わったら もちろんそうさ
朝ご飯が終わったら 苦痛の無い生活が
朝ご飯が終わったら もちろんそうさ 朝ご飯が終わったら

 

元気を出せよ やかんに火をかけて 
陰気になってる場合じゃないぞ
彼女のことなんかもう忘れてしまうんだ
お茶を沸かして 愚痴をこぼす

 

配管工事のおかげさまで 今はもう昔とは違う
ふたを回して少しだけ取り出し 荒っぽく生き返った気分になる
みんなを困らせちゃいけない 友人や家族をね
ベッドから出て 迫り来る日々を生きよう
薬を飲んで お茶を一杯

 

朝ご飯が終わったら 希望がいっぱい待っているのかな
朝ご飯が終わったら もちろんそうさ
朝ご飯が終わったら 落ち込んでいる場合じゃない
朝ご飯が終わったら もちろんそうさ 朝ご飯が終わったら

 

 

              .

 

 

 いつかロックは死んだ。

 

 いつがいつかは知らないが今も死んでいる。ずっと死んだままだ。2006年3月14日0時8分、現在までいちども生き返ったりしたことはない。

 

 

              .

 

 

 詩は読者からコメント欄で教えてもらったレイ・デイビスの“Is there life after breakfast ?”だが、だから、これもファンタジーなのだ。朝ご飯が終わったら苦痛のない生活が待っているというのは、アメリカ大統領から新宿のホームレスに至るまでの誰にとっても明らかな嘘である。ものすごくいい曲の、ものすごくいい歌詞なのはそれは間違いないけれども、だからと言って「空に向かってパンチ」したところで生活の何が変わるわけでも、ない。

 

 しかしストリートは目の前にある。

 

 そう、朝ご飯が終わってお茶を飲んで‥‥歌の主人公がドアを開けて飛び出すのは言及こそなかれ「ストリート」なのだ。

 

 それはロックのように生まれて死んだりする種類の夢ではない。はじめから「ある」か「ない」かのどちらであるような実在で、2006年3月14日0時10分現在「ストリート」は存在するのだ。

 

 現実の、世界に。

 

 そしてストリートは「どこか」に繋がっている。そこが苦痛のない天国なのか、いや地獄なのかは知らないけど、まぁいちばんありそうなのは「代わり映えのしない日常」ってヤツだけれどもとにかく‥‥繋がっている。

 

 いつか夢は死んだ。今も死んでいる。ずっと死んだままだ。2006年3月14日0時11分、現在までいちども生き返ったりしたことはないけれどもそれが、どうした? ストリートは、あるのだ。自分のケツに蹴りを入れ、空に向かってパンチして僕らはストリートに繰り出す。“Is there life after breakfast ?”は、そういう歌だ。

 

 

3、

 

 JL
(画像はジョン・レノンがもしも生きていたら今はこんな顔に、‥‥なるほど。コンピューターで予測)

 

 

4、

 

 日本のロックと、いわゆる「応援ソング」が嘘臭いのはなぜか。それは、そこで歌われている「夢」そのものが嘘臭いからではない。歌の中の私と、夢を繋ぐ道(ストリート)がリアルな形で示されていないところにある。まず夢は努力すればいつか叶うという類の救いようのない誤りがある上に、歌う「私」と「夢」が直結しているかのような認識の誤りがあって、これはもう、どうしようもない。

 

 ストリートがその「間」にあるの、に。あらねばならないのに。

 

 

              .

 

 

 ロックンロールが夢であることをやめた、この2006年3月14日0時14分現在でもストリートは未だ「路」としての機能を失なっていない。だから日本のロックがそれでも「ロック」でありたいのならば。そして歌で誰かを「応援」したいならなおさら、歌い手は共同幻想としてのロックなどではなく、繋ぐストリートそれ自体を共有できる現実として示し、歌わなければならないのだ。

 

 

 

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コメント

週刊東京少女Aに、ふと反応してしまいました。
ワタシは実のところロックには全く興味がなく、むしろニューエイジ(らしきもの)のをダラダラと聞くのが好きなのですが、応援歌自体のみならず日本のJPOPとやらいうものには何と言うかもう絶望的な痛々しさが感じられます。
 ああいった音楽でよく称揚される「本当の自分探し」などに人は成功するはずも無く、もし実際探し当てたとしてもそれは、TVゲームの「メタルギアソリッド2」で揶揄されているがごとく自分に(だけ)都合のよいモノの見方であったり、それでも真摯に「自分探し」をしている人たちはいずれ、まず生きるためには何が必要なのか、と言う現実を目の当たりにして何をどの様に思うのか。これは暗鬱な感覚を隠し切れませんが、興味があるのも自分の悪いデバガメ根性なのかもしれません。

 いや、すでに音楽のみならず、
 どの芸能人が一番低能かを競うTVも、
 声優のマシンガントークの深夜ラジオも、
 大衆迎合か啓蒙を楯にガセネタを提供する新聞も、
 いくらでも合成がきくインターネットも、
 嘘くさく胡散臭さが拭えないのはどういった事なのでしょう。

 なんだか全く違う話になってしまってすいません。そぐわないと判断されたら削除していただいて構いません。
 妄言失礼致しました(と言う言葉を言い訳にして何をしても良いのだとは思ってはいないつもりなのですが・・・)。

投稿: ぽこすけ | 2006年6月 2日 19:18

ええっと、まずぼくはゲームはやらないしラジオもあまり聞かないし、だからお話のすべてを理解できるわけではありません。
J-POPとひとくくりにしてしまいましたが、J-POPの中にも、ぼくが知らないというだけで、状況と戦っている人たちも、きっと少なからずいると思います。
だからあえて、なのですけど、乱暴に言うわけですけど、
新聞にしてもテレビにしても、ゲームにしてもJ-POPにしても、あれはもう表現でもメディアでもなんでもなくて、ただの日本の、風景の一部になっているのではないか。

そして日本は「風景が醜い」国です。醜いと思います。
信じられない。そんな馬鹿なことがなんでまかりとおるのかと不思議に思いますが、夢が美しくて愛が美しくて、美しいものは美しいのに、「風景」や暮らす人間の「生活」は醜いのです。

    ☆

それはなんでなのかと、ここんとこ最近いろいろ考えて書いているわけですけど、
今思うのは、夢が現実をきちんと支えきれていないからではないか。

みんなむしろ「生活感」なんて言葉をみすぼらしいもののように思ってしまっている、それで生活で夢(仕事)を支えてしまったり、平気でやっている。
逆だと思うんですけど。

日常と夢(美しいもの・正しいもの)を切り離して考えて、だから自分の生活に、まわりの風景に、美しいもの正しいものが何もなくても、それを当たり前だと思って、無頓着になっている。嘘や醜に無感覚になっている。

ぼくもそうですけど、生活のために仕事をするわけで、
日常のために夢があるわけで。

「生活」を支え得るのが本当の仕事であって、
「現実の日常」を支え得るのが本当の夢だと思う。そういうことを大人はもっと発言すべきだと思います。毎日が大事なんだって。
夢じゃなくって目の前の風景が美しくなければならないんだ、って。

わけて考えている人や逆になっている人が、あまりにも多すぎる。

J-POPの歌詞なんか、小学生の交換日記以下ですよ。それがそういう構造を下支えしているってことにも気づかずに‥‥(あとはグチになるのでやめます)。


投稿: ぼく | 2006年6月 2日 20:32

読みました、ホワイトマズルから来ましたけど(笑)
凄いですね、日本のロックの限界とかそこまで何一つ期待して居なかった自分なので。
全ての作品にはリアルなんかくそ食らえ、と、思う僕なのです。
その作品の中にだけリアルがあれば良いと思ってました。
で、有れば吉田拓郎は素晴らしいになるのかなあ?今日からとか、たどり着いたらとか?とか思いながら。
尾崎とか。
僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない。
電車のなか押し合うひとの背中に幾つものドラマを感じて、とか。ets

僕も年を取りました、若いのとは違います。憧れや気分も。
だから、きっともう一つ考えて見てください、その苛立ちの正体。
ジェネレーションギャップってヤツかも知れないなと。
そのうち君にも分かるだろ?って、夢と私が一緒とか、夢と私は分かりやすい同一ではないか?と、僕は思います、皆が皆リーマンになり皆が皆嫁にいく時代ではないのだから、やりたいことは人それぞれであり、その選択、夢想、=夢なのでは?ないでしょうか?
ガキは敏感です。
さいとーさんが敏感だったように。

ロックは若者の音楽で良いのですよ 。40越えたら新しいロックなんか聞かないし。
40過ぎてその時のロックは語れないですよ。
あれは、音楽バージンが聞いてガツンとやられるものだから。
怒髪天が売れるのは、オッサンのリアルだから、理解できるリアルだから。ではないでしょうか?

だから、僕は今でもガキの時代の10年無い時間で聞いたロックを聞きます。
多分、その時しか知恵や経験なんか無いときに聞いた音楽が一生残ります。
そして、その時の言葉にならない抑揚が全てではないでしょうか?
アカデミックに言葉を繋げても今にたいしては意味はないのかなと。

色々な事を考えさしていただきました。
面白かったです。

投稿: らむかな | 2020年8月11日 06:06

2006年かこれ書いたの。うーん、光陰矢の如し(笑)

音楽なら今は‥‥がいちばん好きです。

「28歳でやむを得ず悟った人間」
「自分で呼び出したデーモンたちの力に圧倒されている魔術師」
「死んだ後も忘れないでくれとお前に願う資格のある唯一の男」

誰(笑)?

投稿: ぼく | 2020年8月11日 13:34

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» 日常の奴隷化 [存在discovery]
目標や夢、ビジョンみたいなものと 現在・今・日常 そのつながりを考えてみる。 以前のブログで、こんな記事を書いた↓ 「『目標』はそんなに偉いか。」 他の人の書いたブログで、こういう記事もあった↓ 日本のロックといわゆる「応援ソング」が嘘臭いのはなぜか」 その中で、こんなコメントがあった。 そして日本は「風景が醜い」国です。醜いと思います。 信じられない。そんな馬鹿なことがなんでまかりとおるのかと不思議に思いますが、夢が美しくて愛が美しくて、美しいものは美しいの... [続きを読む]

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