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2006年7月 1日

他人の気持ちになってみろ、と「思いやり」を持ち出してルールを守らせようとする人間は、卑怯だ。

 自分の生きかたがわからない、という人間は、現実を理解する能力が貧弱なのだ。いつも場違いなところにいるような気がする。

 自分のすべてを受け入れてもらいたいと思っているので、自分と他人との境界が曖昧になってしまう。

 極端から極端へ、感情の移り変わりが激しく、人間関係が不安定。人生の価値観や、目標が突然変わったりもする。

 話しかたや、態度がオーバーで、芝居がかっていて、何とか他人を自分に惹きつけたいと思っている。

 能力以上に何かをやってみせようとするが、自分を他者との比較の中に正確に把握できていないので、必ず失敗する。


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 けどみんなそうなのだ。僕だってそうだった。以上に挙げたようなことが、自分に少しも当てはまらないという若い人がいたら、かえって嫌味である。

 社会心理学的には、これら現代の象徴的な若者は、18世紀の産業革命とともに生まれたとされる。それまで家庭に閉じこもっていた女性までもが、外に出て働く機会を多く持つようになった。

 個人の能力次第で、いくらでも上に、どこまでも外に。閉ざされた階級の特権性は崩れ落ち、ほんとうの自由と、「市民生活」の扉が、万人に開かれたときからである。

 だが、個の確立を強く人に求める競争社会は、人に厳しい社会でもあった。あらかじめある枠に自分をはめこむことでしか、自己実現ができなかった人々も当然いる。


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 日本ではその近代化は、欧米に100年以上も遅れて始まった。村上龍などは一本調子に、日本はすでに近代化を終えて次のステップに進もうとしている、とするが、それが正しい認識なのかどうか、僕には正直よくわからない。

 従来型の、突出した個をはじき出そうとする日本型社会は、まさに個をはじき出しながら、今も機能しつづけている。この国が未だに、凶悪な犯罪も少なく、安全な国でありつづけているのは、そのはじき出しシステムのおかげだと言える。

 極端な事件を、極端に報道して日本は変わった、罰則を厳しく適用しろ、凶悪犯は吊せ、性犯罪者は再犯の可能性が高いから監視を強めよと声を荒げる、マスコミと、それにのせられ保守・右傾化した大衆は、個を庇護してくれてもいるのだ。

 男性なら学歴社会や大企業、女性ならば結婚だろうか。その半分は機能不全に陥っているが、もう半分は、ルールをさらに厳しくすることで生き残りをはかっている。この国の現代で崩壊したのは、大マスコミや村上龍の言うところの「日本」とは少し異なる、そのあいだにあったはずの、曖昧な「間」だろう。

 極端と極端に引き裂かれ、誰もが間を取れなくなっているように僕には見える。


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 この期に及んで、崩壊したルールを守ることでしか、生きてこれなかった人たちがいる。

 たとえばたいして好きでもない男と、つい結婚してしまう女や、自分のやりたいことが何か、深く考えることもなく大企業に就職してしまう男。逆に生活より夢を優先して、コンビニでバイトをつづけるフリーターも、自分自身に嘘をついているという意味では、同じ穴に含まれる。

 こういう生活はつまらない、という寂しい思い。自分には何の才能もない、という諦め。そして将来に対する漠然とした不安。

 そんなネガティブな気持ちをお金が、結婚が、夢が消してくれるのではないかという考えかただ。

 彼らは、本当の自分は今の自分の現状には満足していないということを、心の奥底では自ら認めている。

 だからこその結婚、だからこその学歴であり、だからこそのコンビニなのだが、それは自分で自分につく嘘だ。そこでは半端者であることが自己証明になる個人より、あらかじめある枠に自分をはめこむことでしか、自己実現ができなかった人々のほうが、はるかに多いのだ。


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 そういう人間は、自分だけでなく、他人にも嘘をつく。歪みを、人にも押しつけるようにして、子供や、弱い立場の人間に、余計なお節介をよく焼く。

 小学生のとき、好きな言葉を「自由」なんて書くと、自由っていうのはね、自分勝手とは違うんだ、それは責任をともなうものなんだよと言ってくる先生が必ずいたと思うが、自由と自分勝手とは違う、と子供を諌める大人は、自由が集団にもたらす大変化を恐れ、保身をはかっているにすぎないのである。 

 彼らは、子供が自由であることの責任を、大人が放棄する国に生まれたので、大人になってからも、それと同じ歪みを子供に押しつけるのだ。

 自分が枠に守られて生きてきたものだから、飛び出していく子供を守ろうと、平気で人に枠をはめようとする。

 もちろん、先にも書いたとおり、それは悪いことだが、必ずしも間違ったことではない。集団は異分子をはじき出すことで、集団の中にいる人間を保護しているのだから。


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 異分子がいない共同体は、いちばん弱い人間をスケープゴートにしてきた。

 秋田で子供を殺したという、畠山容疑者など、典型だろう。卒業文集には「すぐに仕事をやめてしまいそうな人No.1」などと書かれている。あきらかないじめである。文集に教師の検閲は入らなかったのか、あるいは教師もグルになって、彼女をはじき出してきたのだろう。

 彼女には人格障害クラスターB郡、という診断が入るようだ。聞くところによると、これは、いじめられていたという環境によるものだけではなく、もともと彼女が持っていた、先天的な性質だという。いじめられる人間には、いじめられる理由が備わっていたというのだ。


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 排除する側の自己正当化の論理も、ここまできたか、と感慨ひとしおである。再犯を繰り返す性犯罪者や、人を人とも思わない(思えない)凶悪犯の持つ、人格的欠陥も同じで、これは遺伝するものだともいう。

 それを受けて、性犯罪者という病気が社会に蔓延するのを防ぐためには、彼らを去勢して、隔離するしかないという、ヒトラーも驚愕の意見を、ウェブ上に書き散らしている人もいる。とあるところで、その彼と議論になったのだ。

 被害者や、その遺族の気持ちを考えてみろ、と彼は言う。命の大切さや、人の気持ちをどうこう言うわりに、彼の人権意識が近代以前のレベルであるのには驚く。

 思いやりの心を持ち出すわりに、人間をまったく信用していない人なのである。自分には何のやましいところもないから、指紋を警察に提出してもいい、とこれもどこかに書いている。そういう問題ではないと思うが、プライバシーの感覚はないのだろうか。

 ルールを守らない人間は、ルールの庇護を失うと言う。それで犯罪者を去勢しろ、的な発言をしても、平気なのだろう。 


              ☆


 あなたはなぜそれほどまでに、加害者に感情移入するのか不思議だ、訊かれたので最後に書いておく。

 それは僕が、いい意味でも悪い意味でも、ルールを破る人間だからだと思う。

 都合良く自分らの共同体に感情移入してつくりあげた「思いやり」なんてものを武器にして、ルールを守らせようとする人間に、僕はずっと反発して生きていたからだろう。

 人を信じているわけでもないのに、他人の気持ちになってみろ、と「思いやり」を持ち出してルールを守らせようとする人間は、卑怯だと思う。

 人を殺す人間を、擁護するつもりはないが、人は変われる。遺伝まで持ち出されては終わりだ。そういうものを理由に、人間を生まれつきの枠にはめようとする人は、おかしい。


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 想像力ぐらいは、枠の外側で使いたいものだ。


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コメント

まったく同感です。

投稿: KM | 2006年7月 5日 01:10

「好きな言葉を「自由」なんて書くと、自由っていうのはね、自分勝手とは違うんだ、それは責任をともなうものなんだよと言ってくる先生が必ずいたと思うが、自由と自分勝手とは違う、と子供を諌める大人は、自由が集団にもたらす大変化を恐れ、保身をはかっているにすぎないのである」 

意見の飛躍が大きすぎると思う。90年代から始まったモラルハザード的発想の典型例だと思う。なぜなら、それは自由の恐ろしさを理解していない人の台詞だからだ。己の自由のために他人の自由を奪うなというのは、それは、人間が一人でない以上、社会的な範囲内で自由を設定せざるおえないという限界から来ている。完璧な自由など存在しないという現実からすれば、それは妥当である。

皆があなたの言うような自由を実現しようするとしよう。すると、何がおこるかというと蛙の共食いにも似た自由の共食いが起こる。例えば、たばこをすっている人が、その煙に対して迷惑をしている他人に対して、たばこを吸うのは私の自由だと言い始めたら、きりがなくなるのだ。

単に保守的なのではなく、人が一人でない以上、限界が存在するという現実を述べたものであるに過ぎないのであって、自由が持つ唯一のルールといってもいいほど当たり前のルールである。社会の先生の受け売りだが、人間が社会に帰属している以上、パーフェクトフリー(完璧な自由)など存在しない、常に他人の自由の存在を意識しなければならない。

あなたが問題としているのは、己の固定観念を思いやりと定義して押しつける人間であって、自由に対して責任を求める人間に対してのものではないと思う。自分と意見の反する人間を保守的と定義して否定するのは、簡単だが、論理的に見ると非常に矛盾が多くて承服できない発想だ。確かにあなたの意見は見た目(自分の意見が革新的に見えるようにしているが)はいいが、論理的には破綻している。私から見れば、単なるモラルハザードの典型例に過ぎない。

投稿: gari | 2007年8月19日 06:10

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