『グレート・ギャツビー』を読む
僕は、このフィツジェラルドの最高傑作を、日本語で書かれた、日本語の小説として読んだ。
「何かご用がございましたら、親友、ご遠慮なく申しつけてください」
ひとつ間違えば、阿呆らしくも響きかねない、四角四面な言葉づかいをする、あか抜けない田舎者。
ピンク色のスーツを着て、黄色いスポーツカーに乗る、憎めない大金持ち。この彼の使う、親友、という、ありえない呼びかけ、村上はこれを、日本語ではありえないから、と言って「オールド·スポート」という原語のままで放置している。
正直に言って、がっかりした。村上春樹の訳した『偉大なギャツビー』を読んだ。
男の、妄想の中だけに存在する、「夢の女性」に対する、悲しくも阿呆らしい執着。
おたく的、電車男的と言ってもいい、この世で、もっとも純粋で、格好悪い妄想。
一方的な夢に生きた主人公は、その当然の帰結として、夢に裏切られ、文字どおり夢に殺されるわけだが、それを大仰に、可能な限り美しく、「アメリカの悲劇」という綾までつけて描いた。
真実は、長い間、真実のままではいられない。賞味期限を迎え、いずれ腐る。
だから、僕たちは嘘を記憶する。腐敗する前に、嘘として翻訳した夢を。
ローストし、香辛料をまぶして、保存しやすく小分けし、冷凍庫に入れ。
思い出は、いつも美しいものだがそれを、解凍せずに嘘を、真実と履き違えて、食べてしまったこの男。
彼は死んだ。真実にあてられて死んだ。
『偉大なギャツビー』、 おたくのストーカー。
ギャツビー。
これはそういう小説なんだな、親友。
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コメント
TBさせていただきました。
素晴らしい小説に出会えた興奮がしばらくおさまりませんでした。
次は、野崎訳版に挑戦したいと思います。
投稿: タウム | 2007年2月28日 00:12