小説
小説のように見える小説のように見える小説のように見える小説。野心のない無垢な語り手の、永遠に埋もれたままの小説。それはきっと、日記のようだろう。
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小説のように見える小説のように見える小説のように見える小説。野心のない無垢な語り手の、永遠に埋もれたままの小説。それはきっと、日記のようだろう。
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自分の中には、自分より大きな穴が開いている。なんとなくだけど、そんな気がしていた。
僕が自分よりも大きな言葉、深い行い、そういったすべてをすっと受け入れることができるのは、この「穴」のおかげだと思っている。
だから「自分の大きさ」というのは、「自分の大きさ」のことではない。それは自分の中に開いている穴の大きさのことだ。
僕は自分より大きくはなれない。最大限大きくなったところでゼロだ。
ゼロ、それが自分自身の大きさであった。自分以上のものにはなれない。
マックス努力すれば、出発点までは行ける。でもそこまでだ。出発して自分以外のものにはなれない。
でも、穴なら開けられる。自分より大きな穴、ほとんど世界と同じくらい大きな穴を、自分に開けることはできる。
‥‥
僕を救ってくれたのはプラスの世界ではない。マイナスの穴だ。
人ではない。穴だ。
可能性は無限大、そんな言葉も嘘だ。
僕はマイナス無限大で、可能性は、最大でもゼロなのだ。
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世界は100人の村だが、村には1000人が住んでいる。そんな感じだ。どこへ行っても。
村がある。「100人の村」とある。なのに僕は、101人目ではない。1001人目なのだ。どこへ行っても。
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それは自分が絶対に勝てる相手を何人か知ってる、ってことだ。
それはまた、自分が絶対にかなわない相手を何人か知ってる、ってことだ。あまり認めたくないことだ。
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どんな天才の作品でも、女や酒や麻薬の妨害を受けずにつくられた作品を、素直に評価したくないなぁ、という気持ちが今はある。なぜだろう。スマップを高く高く評価してしまいそうな自分がいる。
‥‥
17時30分、洞爺湖ホテルのパンフレットを見て過ごす。18時、近所のシヨッピングモールのチラシを見て過ごす。最近は特売日でもバナナが100円にならない。今日の僕は、雑踏の中で、人よりも歩くスピードが遅い。
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正しいことばかり言って、正しいことばかりする必要はないんだよ。別に、わざと間違う必要もないけどな。間違ったことばかりする必要もない。
そういうのには、ノルマがあるんじゃないか、って思う。みんなはどうなんだろうな。僕は正しいことするノルマも、間違ったことするノルマも、5年くらい前に達成しちゃった。
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酒呑みには酒呑みのノルマがあると思う。ある年齢までに達成すべきノルマが。スマップ草なぎ君は、そのノルマを達成できていなかったのではないか。それであんなことになってしまったのではないかと思う。そこはちょっと可哀想な気がする。
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電話がかかってくる。夢の中で電話がかかってくると出てしまう。無視できない。なぜだろう。現実では出ないことも多いのに。無視されることも多いのに。
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100歳まで生きたい生きたいと言っている10歳の子供が本当にその歳まで生きてしまったらショック、死にたい死にたいといつも言っている大人が死んでしまうのもショックだ。知り合いにそういうのが1人いる。思い出してみれば母もそうだった。彼女たちにはできるだけ長生きしてもらいたい。
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僕たちが同い年だった時期がある。ほんの短い間、3秒間ぐらい。それよりも昔、フリッパーズ・ギターの2人は僕よりも少し年上だった。今ではずいぶん年下に感じる。
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Utadaのニューアルバムを試聴した。あまり好きになれなかった。宇多田ヒカル本人が好きになれなかったわけではない(たぶん)。
でも音楽って、きっと、知らない人を好きになるためにあるんだよ。
宇多田ヒカルを知っている、そう? 知ってる人を好きになって、何が楽しいの?
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本当は銀行員になっているはずの人がパンクロッカーになったり、本当は医者になっているはずの人がパンクロッカーになったり、ということが昔はもっとあった。
最近は反対で、インディーズでやるべき人はインディーズで、メジャーでやるべき人はメジャーで、趣味でやるべき人は趣味で。
ものすごく適材適所に、才能が配置されているなぁ、と思う。
隙間は全然ないんだけど、とにかく適材適所だから、自由度は高いというか。表現のクオリティも上がった。
僕が若かったころ、80年代は、「隙間」だらけだった。なのに動けなかった。
動けなかったのは、時代のせいではなくて、僕が若かったからかも知れないけどね。
ただ思うのは、パンクをやるべき人がパンクをやってる、今の世の中なんて、糞喰らえだよ。
いつの間にこんなことになっちゃったんだよ。
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ローカル線に無賃乗車して、隣駅まで。シネコンのレイトショーで、「スラムドッグ」を見た。最後の電話のシーンが良かった。
ちなみにお兄ちゃんは答えを知っていたんじゃないのかな、と思う。ただ答えを知っていることと、答えを選択することは違う。彼はあえて選ばない。彼は死を選ぶ。
A、答えを知っていること。B、答えを選択すること。C、答えを信じること。D、答えを理解すること。
主人公である弟は選択した。初恋の少女は信じた。兄は知っていた。
僕に必要なのは、答えを信じることではない。答えを理解することだと思う。それがファイナルアンサーだ。なんて。僕は残りものに賭けるのだ。
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出口のところに鏡があって、僕は自分の姿を映している。僕はキース·リチャーズのような顔で、フェイ·ウォンのような声で、ついでにエリカという名前で。夢の中に鏡があると見てしまう。
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ローリング·ストーンズのキースがペットのトカゲに、フェイ·ウォンの「夢中人」を聴かせたところ、いきなり脱皮したという。なんて。
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夢を見つづけるより、夢を実現してしまう方が易しいかも知れないと思う。
あれをしたい、これが欲しい、という気持ちをずっと長い間持ちつづけていることは、難しいのである。それはどうしてか。
決して飽きっぽいからではないのだ。
あれをすることができない、これが今手元にない、という状態が長時間つづくことに、僕が耐えられなくなってしまうからだと思う。
僕は○○が欲しかった。でも今はもう欲しくない。
なぜか。それは最初からそんなに欲しくないものだったのか。
あるいは逆に、それが今手元にない、という状態がつづくことに耐えられないほど、僕は強くそれを欲していたのか。
要するにこういうことだと思う。あまり強く欲しがってはいけない。充分に強く欲しなければ手に入らない。
欲しいものが欲しい、というコマーシャルが昔あった。何と言う当たり前の主張? けれど欲しいものを欲しい、と思いつづけることは大変だった。
欲しいものを手に入れることよりもずっと。
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朝の9時ごろ、鏡に向かってメール送信している女性がいる。僕は彼女の尻と顔を同時に見る。なんか言ってやりたくなる。あたりはとても静か。
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危ない橋というのは、意外と渡れる橋だということを、臆病な僕は、最初から知っていた。
つまり渡れる橋は、意外と危ない橋なのだ。うーん。
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ちなみに僕は根が明るい(ネアカ)ので、静かだったり寂しかったり暗かったりするのはそんなに怖くないし、別に嫌でもないのだが書いておく。
静かだったり寂しかったり暗かったりするのは怖くない。ちっとも怖くない。
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「僕の人生」が僕をつくった。
「僕の性格」が僕をつくった。
.
「僕の欲望」が僕をつくった。
逆ではない。
僕が「僕の欲望」の海を自然に泳いでいけるのは、だから、当たり前のこと。
.
長い長い時間をかけて、僕は「僕の欲望」に飼い馴らされてきた。
.
欲望という名前がついた、ちょうど僕の形をした穴があり、僕は自分の体を埋め込む。
ちょっとした後ろめたさのようなものを、その「穴」に対して感じないでもない。
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自分は特別な人間だ、と僕は思い込んでいた。もちろん違った。僕は特別ではない。
その勘違いに気づいてからは、僕はみんなのことを、特別な人間だと考えるようになった。僕だけが凡庸だと。
僕は特別なみなさんと、関係を持つことをしなかった。
人間はひとりひとり特別なのだ。そう考えるより、僕たちはみんな凡庸だ、と考える方が希望は持てる。実際にそうだったと思う。みんな、全然普通の人だったと思う。
そのことは知っていたけど、でもそうは考えなかった。誰かが凡庸だった。そして誰かが「特別な人間」だった。
僕はいまだに、そう思い込んでいる。誰が凡庸で、誰がそうではないのか、
意地になって、見極めようとしている。
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もっと年をとってボケて、自分の過去をみんな忘れてしまっても、大滝詠一の歌は憶えている。
僕は松本隆の詩を起点にして、夏で始まって夏で終わるように、
記憶を再構築するだろう、と思う。
「1969年のドラッグレース」という歌が頭の中でリフレインしている。
意味ないことを喋ってるときの僕が、いちばん好きだわって言ったね、
というフレーズ。(すごい老人力)
にしても、今どきスポーツカーに乗っているのはおじさんばかりだな、
と思った。
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もしも「どこでもドア」ができたら、ドアの向こう側には、常に中華料理店がある、
常に中国人がいて、常に中国語が聞こえてくる、という状況が生まれると思う。
僕は中国語を話して、中国人とセックスをしてきた。
彼女がつくってくれた、アグレッシブな中華料理を食べてきた。美味しい。
が僕は、知らず何かに加担している、という気がしないでもなかった。
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「僕が僕であるために、勝ちつづけなきゃならない」という尾崎豊の歌を、誰かがカバーしている。
君が君であるために、君は勝ったり負けたりしなきゃならない。だろうな。もちろんその方が、大変だと知っている。
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よく「負けたら終わり」と言う人がいるけど、逆だと思う。勝てば終わる、
勝てば諦められる。きっぱりと終わらせるために僕は勝つ、ないしは「勝った」と思い込む。
書くことは僕が負けてもいいと思える唯一のこと。ったくかなわねぇな、と思う人がこの世界には無数にいる。まだ終わらせたくない。
ウェブの日記は一生つづけたいと思っている。
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本当は勝ってないけど「勝ち」を宣言しなきゃいけないとき、がある。
勝負はもうついてます、おしまい、って
終わりにしなきゃいけないときがある。てか人生、そういうのの連続なんだけどな。
勝ち負けのつくゲームは、僕は全部勝ってきました、終わり。
みたいな。はい次‥‥
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サマセット・モームの未発表の長篇小説を古本屋で見つける。登場人物は3人。精神病院から退院したばかりの女、これから入院する男、その病院の医師。モームが書いたとは思えない。
神様のいない世界で、祈ることはポルノだ。と強烈な書き出し。その後の展開は苦しい、目が覚めるまで読む。
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時機を見る、あるいはチャンスをうかがう、などという言葉をつかう才能のない人のことを、僕はほとんど理解できない。それほど僕の実感とかけ離れた言葉もない。
僕は見られているのである、時機に。チャンスは僕をうかがっている。その「機会」が僕をつくった。
あるチャンスにピッタリと合うかたちに僕はつくられていて、たぶん他の人たちはそのチャンスのことを、人生と呼んだり大仰に運命と呼んだり、ときに才能と呼んだりするが、僕はただ「性格」と呼ぶ。
‥‥
僕の目の前には、まっすぐな道しかない。僕は曲がりたいのだろうか。その先には「いいこと」しかなくて、僕は曲がれない。
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何をやっても、褒めてくれる人がまわりにいないというのは、その人に才能がないのと同じだ。この僕の使う「才能」という言葉は、いつも言っているとおり、その人の「性格」のこと。人間がいて、性格がある。才能なんてものはない。
褒めてくれなければ、僕は何もしない。褒めてもらっても、するかどうか怪しい。褒めてくれる人もいないのに、何かができちゃう人、褒めてくれる人のために、やらなくてもいいことまでしちゃう人、成功、失敗、すべて才能とは何の関係もないことだ、と思う。
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移動中に、古い外国の小説を読んでいる。「お尻より肩幅が狭い男」という文章に出くわしたところ。笑ってしまった。目の前にそういう男の人がいるから。
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書きたいことがあるから書く、という人たちは、勝手に書けばいい。歌いたいことあるから歌う、という人たち。最初にやりたいことがある、幸せな人たち。
でも何度か書いているとおり、僕の「最初」にあったのは、書きたくないことだった。聞きたくない言葉を、聞かずに済ませようとして、僕は無関係な誰かの、全然別の言葉を聞いた。
それが歌だった。それが小説だったし詩だった。伝えたいことがあって、それをただ伝えるような言葉を、綺麗に並べる必要が、どこにあるのかと思う。
あなたと僕とでは、最初にあるものが違うのだ。やりたいことが最初にあって、やりたくないことをやらずにいられる人が、それを大声で叫ぶ必要は、ないじゃないか。
やりたくないこと、それが最初にある。聞きたくない言葉、見たくない場面、それは最後まであって、何を書くにせよ、ときに間違うことを、ときに音程を外す歌を、僕はやめられない。
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知的である、ということは、寛容であることだと思う。充分な知性を持ちながら、そうでない人は多い。たくさんのことを知っていて、知らずにいることを受け入れられない人。られずにいる人。あまり寛容でない人は多い。
何かを知ることで、「余地」を埋めていくようなやり方を、僕もしていた。
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テレビはもう必要ない、ということを言う人が、インターネットの世界には、たくさんいる。
ネットを電気自動車とするなら、テレビは人力車のようなもので、時代遅れだから要らない、ということだと思う。
でも僕にとってネットは、時速300キロ以上で走る、超高級車のようなものなのだ。
後ろの席にまでエアバッグがついていて、高速道路を走っているとき、前の車に近づき過ぎると、自動的に速度を落としてくれるような車。
テレビは確かに、今どきナビもついてない、下取りに出しても一銭にもならない十年落ちのポンコツだけれども、
それを「終わった」とか、必要がないとまでは、思えない。
僕のような人間にとって、むしろ必要がなくて終わっているのは「ナビ」であり、「時速300キロ」の方だと思う。
ネットの新しさ、ネットの楽しさというのは、要するに「ナビ」なのだ。
ナビのついた車の便利さや楽しさ、最新の安全性能、環境への配慮、そういったすべてを否定するつもりは僕にない。
ただ少なくとも今、この僕が向かおうとしているのは、5年前のロードマップを片手に、重いクラッチを踏んでギアチェンジすることが必要とされる、そんな世界なのである。
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お花見というとき、僕は桜の、一輪一輪を見ない。形のない全体と、全体を含む風景を一緒に見て、いいな、綺麗だなと思っているわけだけど、風景そのものは、花が咲く前と何も違ってなかったりする。
もしも桜の花のような人がいるなら、僕はその人の風景になりたいと思う。何かを変えたい、という気持ちの反対を思っている。
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決して満たされることのない世界で、簡単に満たされてしまう僕。などなど。
世界が僕だけのものになったとき、世界は終わるのだろうという予感がある。
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忙しくしている怠け者、という感じだった。あるいは少しのんびりしている働き者、といったふうでもあり、僕は普通だった。まぁ具体的には書かないが‥‥
‥‥僕には試練が与えられていた。試練を乗り切る才覚も同時に与えられていた。試練から身を遠ざけておく狡猾さではなくて、それを切り抜ける力が与えられていたこと、それが「幸せ」だと、僕は知っていた。
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店でスープを飲んでいたら、皿の底に古いアディダスのマークが見えた。アディダスの皿! たぶん何かの野菜を描こうとして、失敗しただけだと思うが。そのときは、茶柱が立ったのと同じぐらいの衝撃を受けた。つまり嬉しかった。
心がじたばたして、何かが「カキーン」といったので、少しふうふうした。
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町に出て、町を歩いた。とくに目的はなかった。できるだけクールに見えるよう、意識して振る舞った。
誰かに訊いてみたかった。『スラムドッグ$ミリオネア』のことを考えていると僕はクールに見えるか、それとも考えない方がクールに見えるのか。
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中国人の友達が、僕に新しいあだ名をつけてくれた。「理解」という。すごく気に入った!
いい気分になって町を歩いた。それが伝わったのだろう。何人かが僕の顔を見ていく。
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僕の想像力が育てた僕と、誰か他の人の想像力が育てた僕が出会う。僕には理解できない話をする。しかたないので僕は、誰か他の人をひとり、頭の中で成長させる。長い時間がかかる。僕たちは会話し始める。
夢を見て眠る。眠ってから夢見るのではなく、最初に夢を見る。眠りは必要なくなる。
惰眠、ってやつ、そういう眠りを眠る。
僕は非常に短い時間で、何かを学ぶ。何かを経験して、何も学ばないでいることより、学んでしまうことの方が、ずっと易しい。
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好きな仕事はない。好きに仕事するのが好きだ。それと同じで、好きな人生はない。好きに生きるのが好きだ。好きな考えはない。好きに考えるのが好きだ。
すべてそんな感じ。
逆に言えば、好きな考えがあるなら、好きに考えてはいけないのだ。好きな人生があるなら、そのとおりに生きなければならない。好きに生きてはならない。
好きな人がいるなら、人を好きにしてはならない。どちらかを選ばなければならない。僕は中途半端に、前者を選んできたような気がする。
好きに生きてきたつもりで、なのに心のどこかに、憧れの「好きな人生」を隠してきたような気がする。
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私は大切なことを知っている。そう思っている人に、大切なことは言えないだろう。
僕は大切なことを知っている。彼女も同じぐらい大切なことを知っているので、僕たちの会話は、ものすごく下らない。ほとんど自分たちの話しかしないのだ。
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鮭の精のことを考えた。
僕は鮭が好きなので、鮭の精も僕を好きなのだ。それで夜になると、美しい女の人の姿になって、僕の部屋にやってきて、一緒に鮭を食べてくれるのだ。
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読むことは僕にとってストレスなのだと知った。僕はそれを苦にしていて、読まれることで解消していた。それと同じなのだった。
見ることが彼女にとってのストレスだった。いやみんなそうなのか。彼女たちはそれを本当に苦にしていて、見られることで解消していた。
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もしも夜空に、四角や三角の月が浮かぶなら、それは出来事ではなくて、お話になるだろう。
今さらながらであるが、僕の人生は、出来事だった。ただの出来事、ただの四角、お話にはならなかった三角。
世の中にはお話になるような出来事が溢れている。羨ましいでも、羨ましくないでもなくて、それは四角い月のようなもので、
いやええっと、よくわからない。とにかくそうなんだと思った。
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ある日には僕は雨が好きだった。別の日には嫌いだったし、そのまた別の日にはどうでも良かった。なのに僕は常に、群集の中で、降り出した雨に最初に気づくような人間だった。雨が上がったことに気づくのは、別の人だった。
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昨日と違う人に会っても、僕は僕だ。むしろ違う人に会うことで、僕はより同じ僕になっていくように感じる。
毎日新しく、違う人と会う。そのような生活を送っていたら、僕は僕として固定され、永遠に変われないだろう。
1年前と比べても、1ヵ月前と比べても、1週間前と比べても、僕は変わったと思う。
それはどうしてかというと、僕が「同じ人」と会っていたからだ。
一方で10年、という単位で考えると、僕はあまり変わっていない。なぜか。僕が10年前とはまったく違う人と会っているからだが、そのへんの感覚を、人に説明するのは難しい。
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