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2015年7月31日

溺死

 向かって左側の扉から、いつもの黒い服を着て、秒速2メートルぐらいの早足で、君はあらわれた。客席に向かって、軽くいちどだけ頭を下げ、ピアノの前に腰掛ける。と同時に、演奏が始まるのだ。観客が咳払いをする暇もない。

 狭い部屋に並べられた椅子は、50ほど。最前列の席に座った僕と、君との距離は、1メートル。ものすごく近い。手を伸ばせば、鍵盤に届く。なのに演奏中の君は、歩いているときより更に緊張した様子で、僕に気づく気配はない。

 演奏は、圧倒的だった。近くにいるはずの君が、遠く見えた。ただ聴こえてくる爆音が、ピアノまでの距離を思い出させる。‥‥1曲目の終わりは、演奏が終わった、というよりも、音が消えた、という感じだった。音が消えて、君が姿をあらわした。

 2曲目の、シューベルトのピアノソナタの冒頭で、君と目が合った。ちょっとだけ、変な角度で、目だけが合った。驚いた瞳、僕はこれを見に地球を半周したのだ、とわかる。左目、そして右目と、片方ずつウインクを決めて、君は笑う。

 それで充分なのだ、僕にとっては。

 体験しなきゃわからないことと、体験してもわからないことが、ごっちゃになった海で、僕は溺れていく。僕にわかっているのは、自分がそうせずにはいられないということ、それだけだ。

 慣れ親しんだ、変化しつづける音の洪水の中を、君に心底魅了された僕は、わけもわからず歩きつづける。帰ってきた。でももうすでに僕は、また出かけたくて、落ち着かない。君のピアノのすぐ前で、溺死したくて、うずうずしている。

 君が笑うと、世界が笑う、そんなことを書いていた人がいる。けっこう有名な言葉だ。けど世界は笑ったりしない。ただ演奏中に僕を見つけて、そこまで有名ではない君が笑うと、音楽と僕も笑う。



 ほとんど充分なのだ、それで。




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コメント

(月並みな表現ですが)ぼく様の、彼女への想いは読んでていつも、なんて美しいラブレターなんだ…と感嘆せずにいられません。

投稿: JL | 2015年8月12日 21:54

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