名前
夢を見た。ベッドの上で僕は「ヨシ! ヨシ!」と自分の名前を呼んでいた。その声で目覚めた。しかしその声は自分のものではなかった。この体も自分のものではなかった。
息子がボール遊びをしている。そのボールは惑星なのだそうだ、息子によると。これが火星、これは冥王星‥‥
冥王星はもう惑星じゃないんだよ、と指摘しようとして思い留まる。
冥王星と2人でお風呂に入ってもいいかな? と息子は訊く。
お母さんと一緒に入りなよ。
駄目だよ。お母さんは冥王星が大嫌いなんだ。
じゃあお父さんと一緒に入ろう。
お父さんも冥王星嫌いでしょ。
知ってるか、冥王星は惑星じゃないんだぞ。
僕は息子を泣かせてしまう。
そいつに近づいた。
踊りながら近づいた。そいつはまず踊ってない者を食べた。踊ってない者を全員食べてしまうと、次は踊りの下手な者を食べた。そいつの周りには、見事に踊る者だけが残った。そいつは次に、あまりにも見事に踊る者を1人食べた。僕たちダンサーの間で、激しい混乱が起きた。するとそいつは、混乱した踊り手を食べた。
ピアノの音に誘われて、大広間に入った。そこには1台のピアノがあり、女性が演奏をしていた。ピアノの周囲には、着飾った人形が何体も立っていた。人形たちは等身大より少し大きく、服はどれも小さかった。
君と僕は手を取って歩いた。足音を立てないように静かに。人形の森をかき分け、そっとピアノに近づく。ピアニストは何も書かれていない楽譜から顔を上げた。
野球をしていた。僕たちのチームの投手は車椅子に乗っていた。彼は5回まで投げた。その後で僕がマウンドに立った。チームは1点差で負けていた。
投げようとすると、つづきは明日にしよう、という声が上がった。みんなが同意した。マウンドを降りた車椅子の投手もその方がいいと言うので、仕方なくそうした。僕は家に帰った。
ぬかるみの中を歩いていた。僕も女房も泥まみれだ。僕たちの子供は僕たちより少し先を歩いていた。ときどき転んだりもした。しかし彼は綺麗なままだった。彼の靴も服もまったく汚れてなかった。同じ道を歩いているはずなのになぜだろうと思った。僕の女房は嬉しさのあまり泣いていた。
南へ旅行に行った。帰ってきてその話をすると、「私も行きたい」と君は言い出した。君を伴って僕はもういちど出かけた。僕は君を案内することができるだろう。
(到着した。)
町に出た。暑かったので水を買おうとした。しかし君のクレジットカードは使えなかった。僕のカードも使えなかった。どうしてなのかわからない。僕たちは現金をほとんど持ってなかった。
バスがやって来て僕たちの前で停まった。扉が開いた。大きなバスだったが将棋の桂馬のような動き。軽快な動きだ。運賃は無料だという。乗客は1人もいない。僕たちが乗り込むとバスは動き出した。バスは町をグルグルと巡回し始めた。バスに乗って見れば小さな町だった。
アイドルのコンサートを観ていた。僕の隣に、ステージで歌うアイドルとそっくりな女のコがいた。クローンなのだ。そのコと手を繋ごうとした。抱きよせようとする。抵抗はされなかった。彼女は本当は嫌がっていたのかも知れないがわからない。彼女に意志があるのかわからないという意味だ。僕はもうステージは観てなかった。
スキーの板を持った男の人が、すれ違いざま私に、「パパ活は楽しいかい」と訊いた。目が点になった。
「スキーは楽しいですか?」と私は逆に訊いた。
「わからない。スキーはやったことがない。今からするところさ」
「私も」
「何が『私も』なんだよ?」
男は別に怒っているわけではない。
私がパパ活を完全に否定しても
パパ活は私を推測することをやめない
無条件パパ活は ついに私を特定した
私はさっきの店に財布を忘れてきたことに気づいた。
その背の高い女の人との待ち合わせ場所へ向う途中、別の背の高い女の人に出会ったのだが、その人は「自分こそがあなたを呼び出した女」なのだと言った。
僕はウソツキの女に話しかけた、「君が僕を呼び出したとして、何の用なの?」
女はウソを答えた。(ホントウだったのかも知れないが、僕はその話を信じない。)
女は1人で喋りつづけた。ピノキオの鼻がのびるように、女の背ものびた。
僕は黙ったまま歩いた。
僕たちが待ち合わせ場所に着いたときも、まだ女は喋っていた。声は遥か頭上から届いた。女の声を聞くために、僕も少しウソを言った。そうすると僕の背ものびた。
約束の人を待ちつづけている間に、僕は女と同じくらいの背丈になった。
野球をしていた。僕たちのチームの投手は車椅子に乗っていた。彼は5回まで投げた。その後で僕がマウンドに立った。チームは1点差で負けていた。
投げようとすると、つづきは明日にしよう、という声が上がった。みんなが同意した。マウンドを降りた車椅子の投手もその方がいいと言ったが、僕は投げたかった。無失点に抑える自信があった。やる気がみなぎっていた。なぜここで中断するのだろう。チームの裏の攻撃もクリーンナップからだ。
世界中の人間が、声を揃えて一斉に、お前のことが「好き」だと言うのと、
1人ずつ順番に、「好き」と言ってくれるのと、どっちがいい?
どっちか選べ、と神様は僕に迫った。
1人ずつ順番がいいです、と僕は答えた。
というわけで、僕の人生は、そういうものになった。
僕の前に行列ができている。
歩いている高校生が、自転車に乗った高校生とすれ違った。さらに僕ともすれ違った。駄菓子屋の前だった。髪を金色に染めた高校生ともすれ違った。全員女子だった。1人の男子もいない‥‥
僕はやっと自分の家の玄関前に辿り着いた。家の周囲をぐるっと半周するのに半日かかった。とにかく大きな家だった。
ひどく蒸し暑い夜が、前の方から来た。それとすれ違った。すると朝だった。
どこへ行くの、雨の朝が訊いた。
買い物だよ、コンビニまで、すぐ戻るよ、僕は答えた。
コンビニでは接着剤を探した。それが欲しかったわけではない。けど探した。
僕は白い短パンをはいていた。ブリーフのように見えるデザインで恥ずかしかった。でもこれしかないのだ。長いジャケットを借りて着た。家にいた、知らない女のものだ。それから、膝まであるブーツをはいた。足には毛がなかった。まるで女のようだった。
異常な夕焼けの中を歩いた。赤い光源は2つあった。東の空にも、西と同じ夕日が沈み、僕は天動説を信じた。太陽が動いているのでなければ、このようなことはありえない。地球は丸くない。地球は平らなのだ。大地の端まで行こう、と決めた。このまま、徒歩で。
‥‥ひどく蒸し暑い夜が、前の方から来た。それとすれ違った。すると朝だった。
ダイアナ妃が書店に来て、店中の本に自分の名前を書いていた。僕たちは茫然と見守るだけだった。
ダイアナ妃はペンを落した。誰も拾ってやろうとはしなかった。彼女がそれを拾うために屈めば、下着が見えるだろうと期待してのことだ。実際に思っていたとおりになった。
帰りませんか、と従者の1人は言った。もう充分でしょう。
道を歩いていた。5円玉が落ちていた。ラッキーと思い拾った。
しばらく行くと、今度は50円玉が落ちていた。拾ってポケットに入れた。この先には500円玉が落ちているだろうと思ったら嬉しくなった。足取りは軽くなった。
清原の豪邸の脇を2度通り過ぎた。道に迷った僕らは同じところを堂々巡りしているのだろうか。そうじゃなくて清原は日本中に家を持っているのかも知れない。清原って誰、と君は訊いた。
交差点を左折した。そのときまで僕らが運転していたのは車だった。今乗っているのは自転車だ。坂道を滑り降りる。そうすると僕らは歩いていた。
高速道路を歩いて横断した。サービスエリアの売店に入った。店内ではヤンキーが1列に並んで、自分で自分に焼きを入れていた。ある者は煙草の火を腕に押し当て、またある者は自分で自分を殴っている。
地べたに座っていた見知らぬ人が、僕にそれを渡した。干物だろうか。それは臍の緒だという。誰の? えっ、まさか。そのまさかだよ、あんたのさ。
食べてごらん。食えるわけないだろ? いや、あんたは食べる。勝手に決めるなよ。
食べた者に、永遠の沈黙をもたらすのさ。は? それって死ぬってことだろ? わかってないな、これは言葉を必要としない世界へ行く鍵だよ。
喋れなくなるってことか? あんた、本当に馬鹿だな。
喋れなくなるんじゃない、喋る必要がなくなるんだ。
感情、意志、欲望、そんなものを口に出す必要がなくなる。
僕は理解される、誰もが僕を受け入れる。
みんなが僕の前では黙る。
みんなは「沈黙」になった。僕が「理解」になった。そうして世界を満たした。
レダという名前の女性が待ち合わせ場所に指定してきたのは、レダという店の中にあるレダという星だった。どういう種類の星なのかは知らない。店の中にあるぐらいだから本物の星ではないのだろう。僕は『星の王子さま』に出てきた小さな星を想像した。王子さまの故郷の、わがままなバラが咲いている星を。そして煤払いをしなければならない3つの火山を。
レダはまだ来ない。店には誰もいない。店にはたくさんの星があった。どれがレダなのかわからない。いくつかの星は燃えていた。ずっと燃えている。燃え尽きることのない火なのだ。またいくつかの星は氷だった。決して溶けない氷だ。星たちは霧の海に浮かんでいる。火と氷の間を船が行き来している。僕はいつのまにか船上にいた。
「この船はレダに行く?」僕は船員に訊いた。
「ダレ?」
「誰? 違う、レダ‥‥レダ」
「ダレ‥‥? 誰?」
彼女とは実際に会ったことはいちどもない。ネットの通信で知り合った。
妹は今家にいない。そのガイジンの女のコは妹の部屋に泊まった。妹が知ったら怒るだろう。ガイジンさんが出発した後で僕は部屋を見てみた。綺麗に使ってくれていればいいのだが。
ベッドの上には下着が脱ぎ捨ててあった。あのガイジンさんのものなのか、妹のものなのかわからない。たぶんガイジンさんが忘れていったものだろう。確認のために彼女に電話をかけた。下着は洗濯機にかけた。
やっと電話がつながった。
「あのさ、今パンツはいてる?」
「は?」ガイジンさんは日本語ができる。
「パンツ何色?」
「日本のマンガでそういうの見たことあるよ。ヘンタイ」
妹が帰ってきた。いきなり。
洗濯機の横に小銭を入れておくビンがある。妹はその中に1円玉と5円玉を入れ、10円玉を取り出し、僕に投げて寄越す。
その家にはトイレがなかった。用を足すには少し離れたところにある別の建物に行かなければならない。
その建物のエントランスホールには、『重力の虹』が置いてあった。いつも誰かがそれを読んでいた。
挿絵入りである(文章がほとんどない)。
絵ですべてが説明されている(とてもわかりやすく)。
「僕も読んだよ、その本」と言ってみる。
「どこで? トイレの中で?」
違うけどそうだと答えた。
昼間、僕は歌を歌っていた。音楽としてではなく、運動として。運動をするための、準備運動として。すると、たくさんの人が集まって、中には僕と一緒に歌い出す者もあらわれた。困った、と内心僕は思った。僕は歌なんか知らない。
最初に踊った人たちの顔には、数字や記号が大きく書かれていた。そういうお面をつけているようにも見えた。どっちにしろ表情はよくわからなかった。その踊りも何を表現したものなのか知れなかった。
その踊りが終ると美しい人が舞台にあらわれた。その人は踊らなかった。ただゆっくりと歩いていた。男なのか女なのかわからない。髪は長かったが男なのか‥‥
その人は去った。するとその後に、帽子をかぶった男たちが出てきた。いや違う。雲だ。黒雲を帽子のように頭に乗せているのだ。
彼らもまた踊った。顔を伏せて踊った。どう解釈したらいいのか。どう受け取ったらいいのか。理解できない踊りを。激しい踊りだった。その踊りは長くつづいた。
道路脇に無人のブース。ピンク色の傘が捨てられている。
雨の中を歩いた。濡れた手に巻き尺を持っている。家から斎場までの距離を測ろうというのだ。
道路を渡る。その向こうが斎場だ。同行者と共に信号が変わるのを待っている。
この道の幅は測らなくていい、と同行者は言う。
どうして?
雨が強くなった。訊きたいことがたくさんあるのに。
同行者は手に鞭を持っている。それを振るう。
同行者は傘をさしている。それは父の傘だと気づく。柄に彫られた名前を見た。間違いない。
冥王星は寒いが、冥王星人は寒さを人に感じさせない。ここに震えはない。つねに薄着である。それがマナーだと考えられている。
冥王星人の肌は雪のように白かった。そこに1人茶色い肌の男がやってきた。冥王星人たちは男の肌に暖かい太陽を感じた。男は。
僕は朝の頭に口をつけ、その長い髪の毛を少し食べた。
全部ではない。少しである。乱暴に抱き寄せても朝は拒絶しなかった。それはそうだろう。
アサは僕の指導する学生だった。懸賞論文に応募するのを手伝った。論文は実質的に僕が全部書いたと言っていい。
論文は見事入賞し、賞金の100万円を彼女はゲットしたのだから‥‥
後日副賞の赤ワインが大学の研究室に送られてきた。
「僕はお酒は飲まないんだ」と女に言った。
「持って帰りなよ、君が飲めばいい」
「帰りに落して割ったらどうしよう、心配だな」と女は言った。
「タクシーに乗って帰りなよ」
それはウン万円以上する超高級ワインだ。
僕は口の中にまだ残っていた朝の髪をぺッぺと吐き出した。
トーク番組の司会者の質問に、僕の知らない外国語で答えている君。隣で僕は深く頷き、笑いが起きたタイミングで腹を抱えるゼスチャー。そんな僕を見て、君がにっこりと笑うから。僕はさらに調子に乗って、「ビアンシュー」などと相槌を打った。
僕は殺された。僕はパトカーの中にいた。パトカーはサイレンを鳴らして、道路を逆走していた。後部座席で、僕は横たわっていた。寝ていた。そのときから既に犠牲者だった。
走行中のパトカーのドアが開いた。誰かが入ってきた。犯人だ。そいつは僕に手を触れずに、僕の首を締めた。
白い蝶が階段を上がっている。歩いて上がっていた。
「何で歩いているの? 飛ばないの?」僕は訊く。
「思い出そうとしているんだ」
「何を?」と僕は訊いた。
長い階段を上りきったところにはレモン色のフェラーリが停まっていた。
近づくと助手席の扉が開いた。僕は乗り込んだ。
運転席には誰も乗ってなかった。
「待ってれば来ると思うんだ」
誰に言うとでもなく、僕は呟く。
高校生くらいの男のコが僕に訊いた。
「よじひきは使える?」
「よじひきって何?」と僕。
僕たちの後ろには修道服を着たシスターたちが並んでいる。
閉店後のスーパーだ。
レジ前に行列ができている。会計をしてくれる人はいないが、買い物カゴを持ったシスターたちは、静かに待ちつづけている。
出入り口は閉まっている。店員もいない。
客はまだ買い物をつづけている。