黒目
気づくと彼女の目は、動かなくなっていた。目が、黒目だけになっていた。それで、動かせないのだ。死んでいるわけではないのだ。
僕は顔を近づけ、その目に映った自分の姿を眺めようとした。しかし、そこには何も映ってなかった。まだ、スイッチが入ってなかった。
僕は、彼女に僕を殴らせた。最初は彼女の手を取って、軽くだ。そうすると、彼女のスイッチは入った。彼女は、美しい、美しい、と言いながら、本気で、僕を殴り始めた。僕も、殴られる度に、心から、美しい、と言った。
気づくと彼女の目は、動かなくなっていた。目が、黒目だけになっていた。それで、動かせないのだ。死んでいるわけではないのだ。
僕は顔を近づけ、その目に映った自分の姿を眺めようとした。しかし、そこには何も映ってなかった。まだ、スイッチが入ってなかった。
僕は、彼女に僕を殴らせた。最初は彼女の手を取って、軽くだ。そうすると、彼女のスイッチは入った。彼女は、美しい、美しい、と言いながら、本気で、僕を殴り始めた。僕も、殴られる度に、心から、美しい、と言った。
間違った駅で降りてしまった。それで迷ってしまった。スマホの地図アプリを開いた。現在位置を確認した。しかし自分の今いる場所は、海の中だと表示された。アイコンがすべて、魚や船や港になっている。ディズニーアニメを連想させた。
駅に戻り、電車を待つ。やってきた電車に乗り込む。それは、小さな船のように大きく揺れた。
明かりは何もなかったので、君の顔を見るためには、朝が来るのを待つしかなかった。しかし君は朝が来る前に帰ってしまう。陽の光の下で、僕は腑抜けのようになった。
また暗くなるのを待てなかった。部屋を真っ暗にすれば彼女は来てくれるかも知れない。けどどんなに完全な闇をつくっても、昼の間は、彼女はあらわれなかった。
「私の顔を見たいの?」
「そうじゃない。ずっと一緒にいたいだけだ」
「どうしてずっと一緒にいたいの?」
「目で確かめられないものを信じるために」
「それは『愛』っていうこと?」
愛。そんな会話をしたその次の夜彼女は来なかった。僕は却って安心して眠くなってしまった。夜に眠くなるなんて何ヶ月ぶりだろう。眠ると君の夢を見た。そこで初めて君の顔を見たのだ。君がおそらく望んでいたとおりに。
愛してる。はっきりとそう伝えた次の日の夢の中にも、君はあらわれた。前の日とは違う顔をしてあらわれた。それから毎晩、眠りに落ちるたびに、違う顔の女を見るようになって、結局それはあまりにも綺麗すぎる嘘なのだとわかった。
僕は「オブリガード人生」というカフェにいた。彼がどうしても行きたいというので連れてきた。1人で行く勇気はないという。無料のカフェだ。政府が運営している。
彼は出てきた飲み物を飲んだ。眠くなったといい寝てしまった。おいおい、その前に「オブリガード人生」っていわなきゃならないんだろ? 僕はそう思ったが彼はもう亡くなっていた。ここは安楽死のカフェだ。
客席は、ガラガラ。前の方に、有名人が、何人かいた。有名人たちは、ステージの上の歌手よりも、有名だ。
その内の、もっとも有名な男のコの隣に、僕は座っていた。
歌手が、歌の合間に、その男のコに訊いた、
「アンタの恋人は、今日は一緒じゃないの?」
「後ろの席に座ってる。あいつは、一般人だからな」
「なら、アンタの隣にいる男は何?」
「知らないのか? 俺の友達だよ」
「有名なの?」
歌手がそう言うと、前の方にいる有名人たちも、隣の男のコも、後ろに座ってる無名の人たちも、みんな笑った。
いたたまれなくなり、僕は席を立った。
そして後ろに歩いて、男のコの恋人のところまで行った。
彼女の手を取って、席を立たせ、さらに後方に下がった。そこは、ステージよりも、強い光の当たる場所だった。
巨大なモニターが設置してある。
どこから撮っているのかはわからなかったけど、そのモニターには、手をつないで見つめ合う、僕たち2人が映っている。
枕元に少年時代の僕が立った。相談があるというのである。「将来はファッション・デザイナーになりたい。自分に素質があるかどうか、このデザイン画を見て判断してほしい」
大きな紙に、虫眼鏡で見なければならないほど小さく絵が描かれていた。あまりにも小さすぎて、デザインの良し悪しはわからない。図鑑に細密画を描く画家になればいいんじゃないか、と僕は心の中で思った。
「実際、未来のあなたはそうなったの?」少年は訊いた。
ならなかった。デザイナーにもならなかった。でもお前は俺じゃない。
絵を描くことが好きだったのは覚えてる。しかし好きだと公言したことはいちどもない。
デザイナーになりたかったことが、あっただろうか。覚えてない。
あったとしても、僕はその思いを、口には出したことはなかったはずだ。
「あなたは、臆病者なんだね」少年は言った。
お前は違う、良かったじゃないか。
僕はボクサーで、世界タイトルマッチのリングに上がる直前だった。控え室で待っていると、会場に集まった観客が足を踏みならす音が聞こえてきた。なんと勇ましい。だが戦うのは僕だ。相手は世界チャンピオンで、史上最強と言われていた。
「あなたは負けるわ」とマネージャーの女性は言った。冷たかった。「試合は見ていかないのかい?」ピンク色のスーツを着た彼女に僕はすがった。「応援してくれないのか?」
リングは、柔らかく茹でられたスパゲティで満たされていた。大量のスパゲティ。チャンピオンはイタリア人。白いスパゲティ風呂の中で、僕たちは殴り合った。チャンピンのハード・パンチの威力も、スパゲティに吸収されて弱まった。勝てるかも知れなかった。
「雪を貸してあげる」とその人は言った。
「使わなければ、ただの雪よ。返してくれなくてもいい」
「ただっていうのは、無料って意味?」
「そう。でも使ってしまったら、返さないとね。雪で返すことは、あなたにはできないでしょう?」
「それは、何で返せばいいんだ?」
「ふふふ。使わなければいいのよ。そうすれば、雪はただの雪‥‥」
「やめてくれ。やめてくれ。そんなもの必要ない。貸してくれなくていい」
「大好きなあなたに、貸してあげる。返さなくていいのよ。ね?」
「いらないって言ってるだろ‥‥」
「うふふふ」
僕は野球選手だった。剛速球を投げる投手だ。その日は小学生相手に投げていた。ボールはテニスボールを使った。時速170km の速球。万が一ぶつけたら危険なので。
小学生相手だが、全力で投げた。三振の山を築いた。当然だが、バットにかすりもしない。だが小学生たちは、「すごい変化球ですね」と言うばかり。誰1人として、スピードのことは言わないのである。
老人が持っている杖は僕のものだった。昨日盗まれたのだ。この老人が盗んだのだろうか。わからないがたぶん違うと思う。そんな悪い人には見えない。
石段に腰掛けていた老人に僕は話しかけた。当たり障りのない天気の話などをした。それから思い切って、杖を盗まれた話をした。鞄の中から折りたたみ式の杖を取り出し、今は仕方なくこれを使っているのだと言った。すると意外にも老人は、その杖を羨ましがった。とても便利そうだと言った。そうしている内に僕の耳は聞こえなくなり、目も見えなくなったようだ。よくあることだ。
降り出した。入り口の傘立てに置いてきた傘が気になって見に行った。盗まれてしまったかも知れない。案の定だった。僕の赤い傘はなかった。
そこらじゅうに赤い傘が散乱していた。どれも新しい傘だった。カメラと一体になった、最新の高級傘もあった。なのに僕の汚い旧式の傘だけが盗まれていたのだ。
ナントカの精が出てくるかも知れない。そう思って僕はしばらく待った。あなたが盗まれたのは、このカメラ付きの赤い傘ですか? それともこちらの、買ってからまだ一回しか使ってない赤い傘ですか?
いえ、僕が盗まれたのは、普通の赤い傘です、そんな高級品じゃありません。
おぉ、正直者よ。
‥‥馬鹿らしくなってきた。
雨が上がるのを待とう。建物の、元いた階に戻ろうとした。しかし下りてきたときに使ったエスカレーターはなくなっていた。非常用の階段だけがあった。「非常二階」にのみ通じている階段である。僕は仕方なく上がった。
非常二階に来るのは初めてだったが、なぜか懐かしかった。寺があって、照明は自然の夕暮れ時を思われる明るさに設定されていた。和服を着た欧米人がたくさんいて、おそらく彼らはここのスタッフだ。
僕は彼らの1人に、傘を盗まれた話をした。言葉が通じたのかわからない。彼(老人)は頷いただけだった。
予報によると雨。だが空を見てもそんな気配なし。持ってきた傘が無駄になる。
僕はスマホを見ていた。東京の知り合いがソーシャルメディアに、カブトガニの形をした雲の動画を上げていて‥‥
「何あれ」
女性の悲鳴のような声がした。みな窓の外を見ている。この町の上空にも、カブトガニが来ていた。
一瞬の出来事だった。強い風が吹いた。その風が目に突き刺さり、涙が出た。涙は頬に流れる前に、風に吹き飛ばされた。窓が閉められた。
そうして、黒い雨が降り出した。
実は宇宙船「緑のたぬき」号から出された遭難信号を最初に受け取ったのは「赤いきつね」号だった。「赤いきつね」は遭難地点のすぐ近くにいたのだが救助には向かわなかった。
遠く離れた地球からたくさんの船が「緑のたぬき」救助に向かった。到着には長い時間がかかるだろう。地球への帰路についた「赤いきつね」は、途中でそれらの船とすれ違った。(お互い、何の挨拶もしなかった。)
ボディーガードをしていた女性が今日で退職したと言った。彼女にガードしてもらっていたのは僕ではないが彼女は僕のところに挨拶に来た。ふだんとはまったく違うヒラヒラした露出の多い服を着て。髪が突然長くなっていたのはウイッグだろう。胸が大きくなっていたのはまた別の仕掛けがあるのかも知れない。「もしかしてムラムラしてません?」と元ボディガードは言った。
そのとおりだったが僕は「デートに誘いたくなった」と答えるに留めた。
「デートプランは?」
「ランチはどう?」
「この辺にいいお店ありましたっけ?」
「ないんだけどね。何の考えもなしに誘ってしまった。まる」
「ははは。まだムラムラしてます?」
椅子もテーブルもないがらんとしたオフィスで、僕たちは立ったまま話をつづけた。「戦争はいつ終ると思いますか?」「実はもう終ってるんじゃないかな?」
何もない部屋だが、なぜかクリスマスツリーだけはあった。去年の12月から置きっぱなしなのだ。ツリーの下には開けられてないプレゼントの箱もあった。
日本から都道府が消えていた。県も全部はなかった。僕は地図を上から見ていった。東北は秋田と福島しかなかった。関東からは栃木と群馬と埼玉がなくなっていて、横浜という大きな県があった。
静岡と愛知のどちらかはあった。どっちなのかはわからない。奈良はあった。海外でも有名な県だ。鳥取があった。砂丘がある。その先の九州は消えていた。四国もなかった。沖縄はあった。
ネットのインフルエンサーの投稿が「酢豚」と言われるようになってしばらく経つ。主に若い人たちの間の流行言葉だが、おじさんも使うようになった。「あの酢豚にはパイナップルが入っている」「あっちでは‥‥リンゴを入れるようになった」
若者が嘆いている。もう終わりだ。本当にそうなんだろう。
一歩一歩、膝をお腹にくっつくまで高く上げる。僕の歩き方は変だ。とても目立ってしまう。ガン見してくるやつがいる一方、逆に目を逸らす人もいた。
なぜそんな歩き方をしているのか自分でもわからなかった‥‥誰かに命令されたのかも知れなかった。命令に逆らうとどうなるのだろう。僕は普通に歩いてみた。すると僕の周囲にいた、ただの通りすがりと見えた人々が、血相を変え慌てたように、僕のもとへ駆け寄ってきた。
誰もいない教室で1人で本を読んでいると、その人は隣に座って話しかけてきた。見たことのない人だった。制服はこの学校の女子のものだったけど、顔は知らなかった。
「私は本を」
彼女はただそれだけを言ったのである。
何のことなのかさっぱりわからなかった。本というのは僕が今読んでいるこの本のことだろうか。
僕は同じ言葉を返すことにした、「僕は本を」
「読む」と彼女は言った。
読む。いや、
「借りる」と僕は答えた、慎重に。
そうすると彼女は頷き微笑んで、僕の本を取った。(借りたつもりなのだろう。)
ずっと体を洗ってなかった。下着も同じものを穿いたままだった。僕は並んでいた。
何万年もかかって、ここまで来た。のろのろと進む、氷河に乗って来た。動く歩道に乗っている連中に、追い越された。氷河から降りた。
降り口の少し先に、歩道で来た人々が列をつくっていた。そのいちばん後ろについた。
列の先の方から、洗濯機の回る音が聞こえてきた。洗濯機が止まる。すると、シャワーの音がした。シャワー。しかしその音もやんだ。
物々交換をする。卵と交換するのはゴルフボールでいいだろう。食パンと交換するのは漫画本。ハムは何と交換すればいいだろう。ハムの絵か。僕は紙にハムを描いて、スーパーに行った。しかしハムはなかった。卵も、何もない。買い物客が描いた食品のヘタクソな絵が、店中に貼り出してあるのみだ。
そこに宮内庁の人は来て、拡声器をもって、「ここにハタチの人はいますか?」繰り返し訊いています。
あなたは1人手を挙げました。明らかにあなたの外見はハタチではないのですが
すると奥から天皇が出てきたではないですか。今度は陛下ご自身が拡声器をもって、「ここにハタチ以外の人はいますか?」
繰り返し訊きました。
あなたは手を挙げた。あぁ、またあなた1人‥‥
陛下はあなたの目前に来て(畏れ多いとはこのこと)、拡声器にも拾いきれないほどの、小さな囁き声で、何か言います。
電車が来るのを待つ間、駅で身体測定が行われた。別名「相撲測定」と呼ばれる、相撲協会が新弟子を発掘する目的で行っているものだ。僕は腹を露出させられ、そこにどおーん、どおーんと金属の板のような機器を何回かぶつけられた。測定機器がどのぐらい跳ね返るかで、横綱になる資質があるかどうかわかるらしい。
相撲協会の職員が、僕の年齢を訊く。
女が走って逃げた。僕は歩いて追いかけた。僕の方が速かった。女は走っている途中で小さくなった。どんどん小さくなっていく。今ではアリの大きさに縮んでいた。そのため楽に追いつけた。女を殺すつもりだった。
長い廊下だった。僕たちは恋人同士で、城に住んでいた。僕の城だった。僕は大金持ちだった。なのに女は、僕と別れると言った。城から走って逃げ出そうとした。
ついに追いつめた。女は振り向いた。拳銃を取り出した。僕に向けて構え、全弾撃ち尽くした。至近距離だった。弾はすべて命中した。ちくっとして、少し痒かった。(それだけである。どうということもない。)
突然女は、元の大きさに戻った。僕も拳銃を取り出し、女に狙いをつけた。全弾撃ち尽くした。ゼロ距離であったが、僕の撃った弾は、全部外れた。
足にまとわりつくように鳥たちが飛んでいた。歩くのに邪魔だった。けれど彼らはもう人間の足首より高くは飛べないのだった。(せいぜいふくらはぎまでであった。)踏み潰してしまいそうになり、しばしば本当にそうなった。
多くの鳥が犠牲になった。僕は生き延びた1羽をつかまえ、肩の上に乗せた。その鳥は、オウムのようだったが、人間の言葉で抗議した。下ろしてください、動悸と目眩がします、私たち鳥は、実は、高いところが怖いのです。
バスタブがざらざらした。ボディ用のソープでそれを洗うと、泡が立ちすぎた。泡切れが悪すぎる‥‥
真っすぐな髪の毛が束になって落ちていた。抜けたのではなく、ハサミで切った髪の毛だ。
ホテルの部屋だ。既に日は落ちていた。客が到着する時刻だ。しかしスイートルームは全然仕上がってない。清掃の業者はもう帰ってしまった。
頭を抱えたまま、ロビーに戻った。(今日は私の、大切な友人たちが宿泊する。国賓級の超VIPだ、と支配人には言っておいたのに。)
あぁ‥‥「彼ら」は到着していた。さっきからいた。何人もいる。顔のない、透明な小人たちだ。影と髪だけが目に見える。
彼らはロビーで髪を切る。バスルームで髪を切る。どこででも髪を切る。
1日で50mも伸びる、黒い髪だ。
ロビーの床が黒くなる。そして暗くなる。髪の色なのか、影の暗さなのかわからない。
支配人とホテルの従業員たちは名札を外して全員外に出た。私にクビにされる前に、自分から辞めたのだ。
2人の子供を連れた若い母親、イエローページをめくっている。「アイロンを修理してくれる店を探しているんですけど‥‥」
電車の中で、僕に話しかけてきた。その声はあまりにも小さく、ほとんど聞き取れなかった。
彼女は僕が日本人だとわかっても、ずっと英語を話していた。
彼女は次の駅で下りた。電話帳を忘れていたので、声をかけた。黄色い電話帳を手渡した。そのときだけ彼女は「すみません」と日本語で言った。
部屋で、クイズが出された。答えられなかった大蛇は、恥ずかしさのあまり、身をクネクネとくねらせて、どこかに隠れようとした。難しすぎる問題だった。僕は大蛇に近づき、もう一問、古典的なクイズを出した。それは聖書を読んでいれば、簡単に答えられるはずのものだった。
僕は自分の吸う煙草の銘柄をまだ決めてない。煙草がなくなって、いちばん初めに見た銘柄の煙草を買うことにしている。ところが、今日は、煙草を切らしてしまってからもう10時間になるのだが、まだ煙草を見てない。吸ってるやつが誰もいない。会社の喫煙ルームもなくなってた。これはどうしたことなんだろう。
もういい。自分で決めたルールなら自分で破る。禁断症状が出てきた。僕はコンビニに入り、レジに直行し、1番の煙草をくれと言った。1番? 店員が聞き返す。あぁ、この店は数字じゃないのか、Aだ、Aの煙草をくれ、はぁ? Aってなんすか? ラッキーストライクだよ、ラッキーのAだ、ストライクのAだよ、どっかに入ってるだろ、Aが、1箱くれ、いや、下さい、お願いします、と言う。
車で競走しました。道は途中から地下になっていました。青い光で満たされたトンネルの中でした。
僕はとても速く走りました。目を閉じたまま走ると、目を開けて走るより、何倍も速く走れることに気づいて。さらに耳栓をすると、もっとスピードは上がるようでした。
列車の上に、列車が落ちてきた。そう、大事故だ。それは、目の前で起きた。どちらの列車にも、僕は乗ってなかった。
足元に、コカインが落ちていた。誰にも気づかれないように、僕は、足でその粉末を吸った。僕の足には、口と鼻があった。それは、こういうときのためだった。
部活の試合がある。今からある。バスケットボール部なのだが、部員は5人しかいない。運動神経の鈍い僕もレギュラーだった。僕はシューズを忘れた。雨だったので、長靴を履いていた。その靴で試合に出ようとすると、顧問の先生に止められた。
映画の撮影中、1人の部外者がスタジオに入り込んできて、みんなに訊いてまわった、「ハコ・エイスケ」という日本人の俳優を知らないか、と。
僕が日本人だと気づくと、彼はずっとしつこく訊いてきた。そんな人は知らないと答えるのだが、そのうちに彼は、あんたが伝説のハコだろう、そうなんだろう、そう言ってわめいた。スタジオに警備員はいなかった。スタッフの内、身体が大きい者が何人かやってきて、彼を外へつまみ出した。
透明人間がいて、刀を構えていた。正に斬りかかろうとしている。僕は、わりと冷静にこう思った、(刀が見える。ということはこの人は今、裸なんだな。服を着ていれば服が見えるはずだから‥‥)
透明人間の刺客を若い女だと思い込むことにした僕は、彼女の胸のあたりを凝視した。あまりにも強く見つめすぎていたのだ。大きさは? 形は? 色は? そんな妄想がぽわーんと広がり、逃げたり、戦ったりするのを忘れさせた。
僕には耳がなかった。昔からなかったわけではなく、あるときなくなった。なくても音はよく聞こえたので、なくなったことに気づかなかった。今日サングラスをかけようとして、そのとき初めて耳がなくなっていることに気づいた。
すると、僕は以前より多くのことを聞き取れるようになっていたことにも気づいた。そうなのだ。彼女が僕にかけてくれたすべての言葉は、心の声だった。それは僕の自分勝手な妄想だった。よく見ると、彼女は口を閉じたままだった。思い出してみれば、2人の間に会話などなかった。
長年一緒に暮らしていたのに、僕らはマトモに話をしたことがなかった‥‥
僕は無意識の内に気づいていた。僕は自分の声、心の声ではなく喉から出た現実のしわがれた声が、やっと彼女にこう言うのを聞いた。「耳を返して」と。僕が耳をなくしたのではない。彼女が僕の耳を盗ったのだ。
2つの隣り合った部屋があり、1つのドアがあった。ドアを開けると、向こう側の部屋には人がいた。なのでドアを閉じた。すると僕のいるこちら側の部屋に、その人は移っていた(瞬間的な移動)。むむむ、何ということだ。
その人の1つしかない目が僕を睨んだ。僕は再度ドアを開け、「向こう側」に出た。しかしその部屋に、その人はまだいた。
知り合いのワニの中に頭だけしかないワニがいる。幽霊のように足がなく、空中を漂って移動している。他のワニのように人間を襲って食べることはない。なので怖くない。恐怖ではなく悲しみと一緒に漂っている。オスのワニだ。
彼は見た目より高齢だった。子と孫がいた。孫が昨日、子が今日死んだと言う。原因はわからない。昨日も同じ話をしていた。それは自虐的なジョークなのかも知れない。ボケているのかもわからない。お悔やみを言わなかった僕。
いかがわしい店だった。ブラウスのボタンを3つも4つも外した胸の大きな女の人がいて、「何でも好きなプレイをしてあげる」と言った。僕は赤ちゃんになってみることにした。彼女はそのような催眠術を僕にかけた。しかし術は僕にはうまくかからなかった。かかりやすい人とかかりにくい人がいるのだと彼女は説明した。僕はたぶん彼女の催眠術もまだ未熟なのだろうと思った。(ちなみに術をかけられるだけで金は取られた。けっこうな額だった。)
店には他の女性もいた。眼鏡をかけた背の高い女性の前には、奴隷になりたいと願う客が列をなしていた。その女性は催眠術は使わなかった。それどころか、女性は一言も発しなかった。客は彼女の前に立つだけで奴隷だった。1回数分のプレイをした後でも、奴隷のままだった。僕と胸の大きな女性は、目を見張って、その様子を眺めた。女性の口から自然とため息が漏れるのを、僕は聞き逃さなかった。
地下の駐車場の明かりは、非常灯も含めすべて消えていた。真っ暗闇。奥の管理人がいるプレハブ小屋を除いて。
僕は管理人のおじいさんに照明をつけてもらおうと思って闇の中を歩いたが、どれだけ歩いてもそこには近づけなかった。距離的に近づけなかったということだ。他の意味では近づけたのだろう。おじいさんがドアを開け、僕を手招きするのが見えた。さらに歩けば歩くほど、僕の目には細かいところが見え始めた。いやちっとも近づけなかったのだが、僕のあまりよくない眼に、おじいさんの手に持っている文庫本の裏表紙の文字が見えてきた。
湖には幾つものボールが浮いていた。ワザと浮かべられたのか、そうでないのかはわからない。不思議な、ある意味フォトジェニックな光景ではあったが、それを意図したものなのか‥‥
ボールの大きさは、バレーボールぐらいだった。湖面に浮いているのと似たボールを持った、長身の女性がいた。バレーボールの選手なのだろう、と僕が安直に考えていると、彼女は話しかけてきた。言葉はフランス語。発音は明瞭だったが、それは意外な、突拍子もないと言っていい提案だったので、僕は何度か聞き返すことになってしまった。
2階にプール、1階の屋内にもプール、そして庭に出ると、プール。さて、どのプールを選べばいいのだろう。水着は着ていた。季節は夏。邸宅は湖畔にあり、湖でも泳ぐことはできたが、湖に行く者はなかった。けれど、僕は行ったのだ。とくに泳ぎたい気分でもなかったから。
久々の帰国。近所に住んでいた仲間は、僕のことを覚えていない。ほら、隣に住んでいた‥‥僕ですよ、と言っても無駄だった。僕は昔、みんなで撮った写真を見せた。鍋を囲んで、シメのアイスクリームを食べていたときの写真だ。1人がふざけて、アイスを鍋に入れようとしている。ほら、これが、僕ですよ。覚えていませんか?
集まっていた内の1人が、濡れた指で僕のスマホの画面に触れると、何かが起動し、狂ったように歌い出す。それは、聴いたことのない歌だった。あぁ、そうだ思い出したよ、懐かしいね、とみんなが言って、笑った。皮肉だと思った。いや嘘だと思った。わかっていたことだが、それは、僕だけが聴いたことのない歌だった。
郷ひろみや、五木ひろしのようなビッグネームが、この小さなライブハウスに来て、持ち歌を1曲だけ歌う。歌手は、何人も来た。演奏は、カラオケだった。観客は、あれは偽物だ、と文句を言った。「郷ひろみなんて、見てみろよ、あんな若いわけないだろう」
荒れそうだった。僕は外に出た。ライブハウスは湖畔にあり、ぶらぶら歩いていると、対岸から花火が上がった。遠く、湖面に幾つもの筏が浮かべられているのが見えた。筏の上ではアメリカから来た白人のロックバンドが演奏していて、聴衆は湖岸から歓声を送るのだった。
気づくと隣を、バレーボールを持った、長身の女性が歩いている。バレーボールの選手なのだろう、と思ってしまう、僕はこれまた安直に。どーん、と花火がまた上がったところで、彼女は僕を、プールに誘った。繰り返しておこう。彼女が僕を、だ。
「プール」
「プールサイドに有名な歌手が来てるのよ」
「あそこのライブハウスにも来てるよ、あっちこっちにいる‥‥さっきまで見てた」