古着マニア
卵。カートにたくさん載っている。それを別のカートに移し替える。それが僕の仕事だった。今日はいつもの倍のカートが来た。新人が手伝いに来た。誰に言われて来たのだろう。正直足手まといである。
追い返した。(1人で充分である。卵の扱いは難しいのでR。)
僕は余裕を見せつけるために、服を積み替えてる人のところへ手伝いに行った。
そいつはオーストラリア旅行から帰ってきたばかりだった。古着マニアだ。オーストラリアにはリーバイスのお宝がたくさん眠っているとの話。
卵。カートにたくさん載っている。それを別のカートに移し替える。それが僕の仕事だった。今日はいつもの倍のカートが来た。新人が手伝いに来た。誰に言われて来たのだろう。正直足手まといである。
追い返した。(1人で充分である。卵の扱いは難しいのでR。)
僕は余裕を見せつけるために、服を積み替えてる人のところへ手伝いに行った。
そいつはオーストラリア旅行から帰ってきたばかりだった。古着マニアだ。オーストラリアにはリーバイスのお宝がたくさん眠っているとの話。
夢を買ってくれるという男の家につづく急な坂道にはまだ雪が残っていた。車はスリップして上がれないようだった。やはり徒歩で来て正解だった。高級SUVが停められた駐車場まで歩いた。そこから先はピラミッドのような石段を上がる。首に何台もカメラを下げた人が写真を撮っていて、「あなたも?」と僕に声をかけた。
「え‥‥?」
「あなたも写真を売りに来た?」
「いや‥‥僕はカメラを売りに来たんですよ」
僕が売りに来たのは夢だ、とは胸を張って言えなくて‥‥そう答えてしまった。夢を買い取ってくれるなんて話、そんな美味い話はあるかと、心のどこかで僕は疑っていたのだ。
入口は小さすぎて通り抜けることができない。僕は手だけを入れ向こう側がどうなっているのかを確かめようとした。そうすると扉につづく長い通路は上下に激しく動いた。通路の壁に設置されたスピーカーから人間の声が流れた。緊急放送ってやつか。しかし何を言っているのかはわからない。
入口から手を抜いたあとも声は何かを喋りつづけている。僕は「入口」を持ち上げて上下に振った。入口には重さはほとんどなかった。ふと気づくと僕の肩の上に人間の女が1人乗っていた。これもまったく重さのない女だ。「さっきから何をやっているの?」と女は訊いた。ふざけて喘ぎ声をあげてから笑った。からかっているのか。女はいつからいたんだろうと僕は思う。
意見を書く紙が4種類ある。入学式について、卒業式について、あとの2つは男の僕は答えなくていいように思えた。明らかに女に向けた質問だ。僕は入学式について短く意見を書いた。それを女に提出した。1つしかないことに、あるいはそれが短すぎることに、女は不満を抱いたかに見えた。また僕を冷笑しているようにも見えたが、よくわからない。穏やかな平日の午後だった。
穏やかな平日の午後だった。ランチタイムにはぎりぎり間に合った。メニューを眺めていると、後ろから目隠しされ「だぁーれだ」をやられた。僕は「学生定食1つ」と注文を出した。「その声は」と目隠しをしたお姉さんは言った。「その鼻から脳天に抜けるような声は、ヒロポンだね」「そうだよ」と僕は答えた。何というあだ名だ。注文は学生定食。「ところであんた誰?」
僕はもっと遠くまで行きたかったが、翼のない飛行機は高く飛べない。翼のない飛行機を撃墜するために追跡している。僕はそんなゲームの中にいるようだ。地表すれすれを飛んでいる。機銃を撃った。
デジタルの永劫の中で、そんな場面が何度も繰り返された。翼のない飛行機は左に旋回して、ふわっと浮く。人間のパイロットが操縦しているのだとわかった。こちらと同じだ。知らんけど本当は、(翼なんかなくったって)高く飛べるんじゃないのか。
自転車に乗って逃げると、ヤクザは追ってきた。逃げるのをやめると、もう追ってこなかった。そうなのか、そういうことなのか。書店の前を通りかかった。中に入った。入口のところに店主がいて、「うちにエロ本はないよ」と言った。
「今日から置くのやめたんだ」
たしかに雑誌のコーナーにはNHKのラジオ講座のテキストしかなかった。これはエロくない。ヨーロッパの風景を撮った写真集が目に留まった。その隣に自動車の写真集があった。村上春樹が表紙だった。僕と同じ青いウインドブレーカーを着て、自転車にまたがっている。背景はスイスの山々だ。
春樹はマニュアル車の魅力について寄稿していた。
「9段トランスミッション、9回のギアチェンジ」というタイトル。いや、まったくのフィクションにしても何のことなのかわからない。
遅れて先ほどのヤクザが店に入ってきたが、店主は「うちにエロ本はないよ」とは言わなかった。
「背泳ぎ奏法」という、ピアノの裏技的な演奏テクニックがあるらしい。ショパンが極めた奥義なのだとか。少女はその「背泳ぎ」の使い手だった。彼女がバラードの4番を弾くのを聴いた。
ピアノからは、楽譜の上を甲虫が歩くときのような、不快で、かつエロチックな、カサカサという音がした。虫が、耳の穴に入った。音楽は、ピアノ以外のところから聴こえてきて、僕の頭の中だけに響いた。
帰宅すると猫の機嫌が悪かった。「私の日記を読まなかったでしょ」と言うのだ。
「うん、そうだよ、日記なんか読まないよ」
「それだからあなたには猫の心がわからないのよ」
「ごめん、じゃ今から読む」
「人の日記を勝手に読むなんて!」
「あうあう‥‥どうしたらいいだろう」
猫は本当に日記なんかつけているんだろうか。
「自分の頭で考えなさい。そのために猿から進化したんでしょ」
「えっと、熱があるのかな? やっぱり‥‥熱いね」
そう言いながら僕は猫の背中を撫でた。火傷しそうだった。背中には取っ手がついている。
仕事を終え、従業員用の出口から外に出ると、そこは山の中腹だった。歩いて下山するか、(それとも頂上まで登って、ロープウェーで下りる手もある。)僕はそのまま下山することにした。山道脇に、50円玉や、10円玉などの硬貨がたくさん落ちているのを見たからだ。
あとから退勤してきて、それに気づいた社員が、僕を追い越し、硬貨を独り占めしようとする。まぁ、1人で全部は拾えないだろう、それはいい。許せなかったのは、彼が500円硬貨にまで手を出そうとしたからだ。
「500円は、だめだ、虫の魂に捧げられたものだ」
「ここに虫の墓があるのが、わからないのか」と僕は言った。「この、バチあたりの異教徒め」
僕たちは後ろ向きに歩いた。すると、そこに着いた。音楽がかかっていて、人々がダンスしている。僕たちも、しばらく踊った。それから、また歩き始めた。(後ろ向きに。)すると、着いた。崩れかけた壁があって、エイズの予防接種のポスターが貼ってあった。音楽はなかったが、カメラが回っていた。ついに辿り着いたのだ。
左の手のひらにスマホが埋め込まれていた。(もう手は洗えないのか。)僕は地図アプリを起動して、オリンピック会場までの道を調べた。歩いていく。
町は浸水していた。水は膝の上まで。「温かい」と言う誰かの声が、僕の耳に届く。そう、温水だ。どこから涌き出ているのか。
途中、ホラー映画のポスターを見た。手のひらをかざすと、あらすじが知れた。ロケ地になったのが、ここだということもわかった。
病院の待合室にいた。健康診断を受ける。裸足だった。スボンも脱がされていた。
白いカーテンの向こうで、名前が呼ばれた。戸惑っていると、カーテンが開き、ナースがもういちど僕を呼んだ。
「バナナがあるの、大好物でしょ」
問診をする医者の横で、ナースがバナナを持っている。
「焼いたバナナもあるのよ」、その声に僕は立ち上がった。
ホテルの従業員は先生、宿泊客は生徒だった。彼らは生徒を呼び捨てにした。「工藤、工藤!」と必ず2回呼んだ。(僕の名前ではない。)
客室は学校の教室に似せてあった。
従業員たちが窓から部屋に入ってきた。客室は7階だったので驚いた。僕には目もくれずドアを蹴破り出て行く。廊下の先に1人うずくまっている若い男が、工藤と呼ばれてこちらを見た。
便器と思っていたのは、ただの椅子だった。しかし、もう間に合わなかった。座面に置いてあるクッションに放尿した。(染み込ませるようにした。)
僕の小便は緑色をしていて、クッションもその色に染まった。
用を足し終え、勉強部屋に戻った僕は、椅子のクッションがなくなっているのに気づいた。あれは、そうだったのだ。さきほどのクッション‥‥すっかり色が変わってしまった。
椅子は、もともとなかった。ステージにかぶりつくようにして、僕たちは立っていた。青い帽子に、背中の大きく開いたドレス。ピアニストはあらわれた。
僕が声をかける前に、こちらに気づいた。「ハワユー?」向こうから挨拶してきた。
近づいてきた。
それからは、ずっと日本語だった。いつの間に覚えたのだろう。「勉強してたんだね」
「勉強してたのよ」
ステージ上にピアノはなかった。
「今日は演奏しないの?」と僕は訊いた。「しないよ」とピアニストは答え、後ろを向いた。背中に3本の太い毛が生えているのが見えた。
男はドアをノックしたりチャイムを鳴らしたりする代わりに歌を歌った。バリトンの美声だった。その歌声をいつまでも聴いていたくて僕はドアを開けなかったのである‥‥
「僕のために歌ってくれているの?」違うのか。違う‥‥
1曲歌い終わると男は帰った。最後までチャイムは鳴らなかった。そのあとで僕はドアを開けた。そこにはまだ別の男の人が残っていた。彼は僕に割り箸を1本渡してから、去っていった。
窓に貼られた大きなポスターに向かって僕は話しかけている。ポスターはラジオのパーソナリティの声で返事をする。
「辞めちゃうって聞いたよ、どうして?」
「番組が終わるのよ‥‥」
ポスターは雪の中で行われるマラソン大会のものだ。いや、もう行われたのだ。ラジオのパーソナリティの女性も参加した。滑って転んだ僕。それはだいぶ前のことだ。
そこはラブホテルだった。僕たち3人はホテルの廊下で歌った。自分たちで作詞作曲した歌だ。すると部屋の中から1人出てきた。制服を着た警官だったのでひびった。
「いい歌だね」と彼はしかし言った。
「そうですか? ありがとうございます」
「ところですごく困ったことが起きているんだよ」と警官は言った。
「女がクスリを飲んでしまってね」
「何のクスリですか?」
「わからない。ただメモがあった」
それは遺書のように見えたが、遺書じゃないようにも見える。
わたし 電話して 狂うと小さいから
「どういう意味ですか、狂うと小さいって?」
「わからない」
「普段はもっと大きいんですかね?」
「何が?」
「いや、その狂った女」
「ふざけないでくれ、私は勤務中なんだ」
急に雨が降り出した。傘を持ってきたのは僕も含めて3人だった。僕の傘は破れていたが、持っていたことには変わりない。持ってなかった3人は逃げ出した。「つかまえてこい」と先生は命じた。
「何で逃げたんだろう?」広げた傘をどうしようか迷う。雨を遮る役には立たない。
「どこへ逃げたのか知ってるぜ」と傘をさしている仲間の1人は言う。何で知ってるんだろう。とにかく彼について行った。逃げた3人はいなかった。
僕の体のところに、1本の腕が出勤してきた。ちょうどそのとき、電話が鳴った。「仕事だ」と僕は腕に言った。
腕は電話を取って、話を始めた。
もう1本の腕が、遅れて出勤してきた。「仕事だ」と僕は言った。腕は紙に、電話の内容をメモした。僕の今日の仕事は終わった。
大きな埃はなかなか吸い取れない。部屋の前の廊下に掃除機をかけていた。しかしよく見ると埃と思っていたのはブロッコリーだった。吸い取れなくて当たり前だ。ブロッコリーなんだから。自分ちに持ち帰って食べよう。汚くなんかない。軽く洗えば汚れは落ちるだろう。
念のため掃除機のゴミパックをチェックした。そこにもブロッコリーが入っていた。タダで手に入れることができてよかった。最近ブロッコリーは高いのだ。(ところでこの部屋は誰の部屋なんだろうか。僕の家の僕の部屋だ。最初からそうだ。廊下だけが違う。誰んちの廊下だ?)
たくさんの人。男も女もいたが、女の方が多かった。そこは僕の家だったが、彼女らはなんでいるんだろう、ダイニングに、居間に、寝室の僕のベッドで鼾をかいているやつもいる。風呂に入っているのもいる。
僕は海外旅行へ出かけるところだった。スーツケーツに、必要なものを詰めていく。バスルームに入っていいだろうか。「だめに決まってるでしょ」と声がした。「歯ブラシを取りたいんだけど?」
何とか荷造りは終えた。出発だ。すると玄関の扉の向こうから、歌が聴こえてきた。外を見た。タキシードの男の人がいて歌っている。
「僕のために歌ってくれているの?」違うのか。違う‥‥。
「あなたにこれを」と彼は僕に割り箸をくれた。
金持ちの家に招待され、夕食をごちそうになった。召使いが皿に盛りつけられた肉を運んできた。何の味つけもされてなかったが、おいしかった。僕が全部食べ終えたあとで、その金持ちの老人は言った。「それはうちで飼っていた猫の肉だよ」げろげーろ「でも猫ってこんなにおいしいんですね、また食べたいです」「いやいや、本当は豆腐だよ、猫じゃないよ」と金持ちは言った。「白かっただろ?」うーん「色は覚えてません」「もう忘れたのか」
美大の4年生の授業、午前は実技、午後は学科だったが、卒業の単位をすべて取得していた僕は、午後になってもアトリエにいた。バイトはする気になれなかった。そういう学生が何人かいて、みんなで絵を描いていた。卒業制作とは関係のない、作品ではない、テーマのない、ただの絵を。描くことに特化した、北側にしか窓のないアトリエでは、外が晴れているのか雨なのかもわからない。時間は何となく過ぎていき、突然隣のやつの爪が3センチも伸びていることに気づいて、僕は驚く。
タバコを吸いに外に出ていた1人が、カメを抱えて戻ってきた。甲羅にてんとう虫の模様が描いてある。てんとう虫なのかも知れない。「これ1匹じゃないぞ」とそいつは言う。(ははは。僕は何かおかしくて、何がおかしいのかわからなったが、ずっと自分の描きかけの絵を見ながら笑ってた。)
最初から変な話だった。西日本から北海道へ行く途中であなたの住んでいる東京に寄る。そのときにお会いしましょうと女は言った。北海道までは飛行機で行くんじゃなかったのだろうか。待ち合わせ場所は彼女が指定してきた。聞いたこともないホテルのプールだった。そこには若い女性しかいなかった。そのほとんどが白人で、モデルのようなスタイルをしていた。「やはり豊胸手術をしているんですか?」心の声が実際に口に出てしまいそうだった。(声は届いてしまったのかわからない。ひときわ美しい女が僕の前にやって来て‥‥)
男性の僕がこんなところに入っていいのかと思う。彼女は遅れてやってきて、泳がないんですか? と訊いた。言い終わらないうちに水色のエナメルのシューズを脱いでいる。それからワンピースを脱いだ。その下は淡い色のビキニだった。透けて見えそうなほどだった。水面が太陽の光を反射する。まるで幾万のフラッシュが焚かれたかのようだ。
時計はいつ何度見ても16:08だった。車が迎えに来た。「お迎えにあがりました」と運転手は言う。僕は頷くが、どこへ行くことになっているのかは知らない。
16:08のまま動かない時計は車の中にもあった。僕は目を閉じてゆっくりと60数えた。「着きました」僕がしかし数え終わる前に運転手は言うのだ。
隣家で奥さんと話しこんでいるとき、雷は頭上に来た。「雷がちょうど上にいる」奥さんは怯えたように言った。「あぁ‥‥」「バレたのよ」「何が?」「私たちの関係‥‥」
そうなのかも知れない。落雷が何度もあった。僕は自分ちに帰ることにした。玄関から玄関まで、5秒もかからないが、奥さんは僕に傘をさすように言った。
純金のたらいを用意して、子供が生まれてくるのを待っていた。このたらいで産湯だ、僕は縁起を担ぐ。けれど生まれてきた子供は、超未熟児だった。小魚のような姿をしている。いや、魚ですらない。精子のようだ。「たらいはもう少し小さくてもよかったな」と僕は思う。そこにいた誰もがそう思ったに違いない。
自分も騙せないような嘘は他人を傷つけることがあると君は言った。その言葉に私は傷ついた。その言葉が嘘だったからではない。(君は自分は嘘つきだという嘘をつく正直者なのだ。私は知っている。)
そのせいで私が騙されていないことには気づけないようだったが、君は最後まで自分のことだけは上手く騙せていて。あぁ、私の君への愛は、誤解に始まり、このような理解で終わったのだ。
長い列車が、トンネルを抜けると1両だけになっていた。その後ろの車両は、トルネルの中から出てこなかった。今も出てこない。そんなニュースがあった。
トンネルの中の様子は? わからない。
現場からの中継は、終わった。
テレビは消えた。テレビそれ自体が、消えてなくなった。僕は座っている。ここも列車の中。そのうちトンネルを抜けた。いや、朝になったのだ。
それは「サンパティック」とかいうパン屋で、僕がパンを買おうとすると、親切な店員が代わりに金を払ってくれた。なんといういい店だ。まるで夢のようだ。
パンは3個。ずしりと重い、緑色のブリオッシュを2個、君の尻と同じ色をしたのを1個。緑色は抹茶だろう、と恋人に言った。そんなことはいいのよ、と君は答えた。怒ることはないのに。
パンを買うのに、店の中で並んだ。並ぶとき、「立っていてはいけない」という決まりがあった。僕と彼女は、しゃがんで、膝を抱えた。そのまま、じりじりと、カウンターの方へ進んだ。やっと順番が来ると、サーチライトのような強い光を、目が溶けてしまいそうなほどの光線を、店員は僕たちに浴びせた。
「えっと、左のパンと、あっ、その横のを‥‥3つください」目が眩んだまま、注文を出した。
僕と彼女は、これから、僕の母の家に行く。泊まりになることは、伝えてあった。パンは、朝食にするつもりで買った。僕のとても若い恋人は、10代だが、僕と結婚するつもりでいる。(彼女は不思議な生き物だ。)まだ早すぎる、と母が諫めてくれることを、僕は期待していた。
彼は白人で、僕は名誉白人だった。バスの中だった。白人の座る席と、黒人の座る席が分かれている。その黒人の少女は、白と黒のギリギリ境に座った。境目とは言え、そこも黒人の席だった。白人の彼は、少女の隣に座った。そうして、黒人のモノマネを始めた。白人の乗客はみんな笑った。少女は悲しそうな顔をしていた。この国に来たばかりだった。僕にはまだ英語がよく聞き取れず、何がおもしろいのかも理解できなかったが、ワケもわからないまま、白人たちと一緒になって笑った。
突然女房は、結婚すると言った。若い、ハンサムな男と。そいつを、家に連れてきた。すると、亡くなっていたはずの、女房の両親が、生き返った。家の中が、賑やかになった。
「あいつとは、もうヤったのか?」女房を問いつめた。女房は、何も答えなかった。女房の鼻が白くなり、少しだけ長く伸びた。おそらく、ヤったのだろう。
天ぷらの中に安全ピンが混入していた。仲間の1人がクレームの電話を入れたが、それはおおげさだと感じた。僕はいっさい気にしてなかった。天ぷらはおいしかった。
芝生の上で、僕たちはガムを噛み、プーっと、風船のように膨らませるのに夢中。水道の蛇口をひねると、光る緑色の水が出てきた。その横で、天ぷらを揚げた料理人のおじいさんが、小言を言われている。僕は、おじいさんをかばった。
長い列車が、トンネルを抜けると1両だけになっていた。その後ろの車両は、トルネルの中から出てこなかった。今も出てこない。そんなニュースがあった。トンネルの中の様子は、わからない。現場からの中継は終った。
さて朝になった。全人類が眠りから目覚めた。かわりに僕が眠らなければ。これから何年間も、全人類のかわりに。
空のショッピングバッグが散乱した部屋に足の踏み場はなかった。中身はどこにあるんだろうと別の部屋を探した。廊下の先に、廊下がつづいていた。入ったことのない部屋がいくつもあった。いつも鍵がかかっていたドアは、今は開けることができた。
座席上の網棚に僕の衣装ケースがある。ちょうどこの車両には誰も乗っていない。着替えようと思ったところで、中国人観光客の団体が乗ってきた。
慌てて席に座った。窓の外を見た。駅のホーム。高校の演劇部がシェークスピアをやるらしい。顧問の先生が列車の乗客に主演の女優を紹介している。おもしろそうだ。遅れて主演の男優も挨拶にあらわれた。車内は混んできた。僕はその駅で下車し、劇を観に行くことに決めた。
英語を話す仲間たちと映画を観た。映画が終った。いい映画だった。僕たちが感想を語り合っているところに、インディ・ジョーンズのコスプレをした白人が2人やってきた。彼らにも感想を訊ねた。
しかし彼らは、インディー・ジョーンズの話しかしなかった。隣のスクリーンで、これからインディー・ジョーンズが始まる。パート2のリバイバル上映だった。テーマ音楽が奥から聴こえてくると、彼らは叫び声をあげ突入した。
その男性と僕はエレベーターに乗った。地階まで下りるつもりだったが下りなかった。僕たちは途中の10階で下りた。
エレベーター前のロビーにソファがあった。僕たちは離れて腰掛けた。ロビーに肌の黒い男性がいた。僕の連れは英語で話しかけた。「ここに、日本人向けに味をマイルドにしたインド料理店はないだろうか?」
肌の黒い男性は、僕の連れではなく、離れたところにいる僕を見つめた。そして「ない」と日本語で答えた。
そんなはずはない。
冷蔵庫に大量に買い置きしてたヨーグルトの期限が切れていた。すべて4年前のものだった。4年ということはありえない。4年も気づかなかったわけがない。日付の印刷ミスだろう。僕は構わず食べた。そのあとですぐに出かけた。駅で君と待ち合わせだった。君はカードで切符を買った。僕は販売機に小銭を入れた。しかし機械はその硬貨を受け取ろうとしなかった。
「コインは全部紐で縛って、投入するときバラけないようにしなきゃだめなのよ」君が教えてくれたとおりにしたが、僕は失敗しつづけた。
荒野を1人で歩いていると、後ろから車がやって来た。どこまで行くんだ? 乗せてやるよ、と声をかけられた。僕は断った。
「どうしてだい? 親切に言ってるのに」 相手は少し気分を害したようだった。
「人間は1日千マイル以上走ったら死ぬんだ」と僕は説明した。
僕はこの日もう950マイル以上走ってしまった。仕方なく車は捨てて歩いている。
その車、どこで拾ったんだ? 今あんたが乗っている車。
「こいつは俺様の愛車だよ」とその人は答えた。
そうかい?
「そうさ。まぁ、せいぜい長生きしなよ」と吐き捨てて、その人は去った。
切符を手の甲に乗せ、女の駅員さんに差し出す。切符を受け取った駅員さんは鋏を入れ、僕の手の甲にそっと返した。「落さないようにね」と言った。
僕は中指の爪先に怪我をしていて、手の甲には絆創膏も乗っていた。「これが見える?」と駅員さんに僕は訊いた。
「絆創膏を貼ってもらいたかった?」
「うん」
「私がタイムマシンに乗って、君が怪我をする前に時を遡り‥‥
‥‥怪我をする前の指に予め絆創膏を貼っておいてあげるのはどうかしら?」
「いいね。すごくいい考えだと思う!」と僕は答えた。
最高だ。
「怪我をしたのはいつ?」と駅員さんは訊いた。笑うところだと気づいたが、もう遅かった。
今日、韓国に来た。誰もいなかった。空港鉄道の駅に行った。列車は動いていたが、人はいなかった。誰も乗ってないバスが、自動で動いている、リムジンバスの乗り場に戻った。どうすればいいのか、わからなくなった。
タクシーがやって来た。運転手のいるタクシーだ。乗り込んで行き先を告げると「途中で寄り道しますけど、いいですかね?」
この際かまわない。
タクシーは途中で、何人かの無口な客を拾ったが、どこでどう寄り道したのかはわからない。市内の僕のアパートの近くの公園で、全員が降ろされた。料金は請求されなかったので、おかしいと思っていると、そこはまだ空港のタクシー乗り場だった。
地下鉄のホームに下りる階段はパチンコ屋の中にあった。店内にほとんど客はいなかった。音もなく、たばこの煙もない、清潔な店だった。チカチカと何かが光った。誰かの台で、当たりが出たのだろう。
電車は音もなく到着して、音もなく去った。停車時間はたったの5秒だったが、乗る人も、降りる人もいない。22秒後に、また次の電車は来た。その22秒間、僕は息を止めていた。
扉が音もなく開いた瞬間、僕は空気を大きく吸い込んで、27秒目だった。息を吐こうとすると、5秒ではなく、5年が過ぎていたのだ。
究極の選択だった。怪物に変身させられるか、殺されるか。僕は天を見上げた。そこには怪物の姿になった「英国」があった。英国は空から落ちてきて、バラバラになった。そのジクソーパズルのピースのようなかけらの1つひとつを、僕は拾い集め、正しい英国のかたちに組み直した。
港で、船が待っていた。遅れて新幹線もやって来た。緑色の車体に、オレンジのラインが入った新幹線だ。ちょっと違うんじゃないかな、と思って、僕は乗らなかった。
結局、バイクで送ってもらうことになった。ハンドルより前に、乗る場所が設けられている。僕がそこに座ったら、ライダーの視界の妨げになると思った。
ふと見ると、足元に猫がいた。僕が屈んで背中を撫でている間に、バイクは去った。「お前のせいだぞ」と猫は猫の言葉で言った。
遅刻だ。船も、新幹線も、もうない。