原稿
彼は就職活動を始めたという。彼は小説家だったが、9本もの連載を抱えてパンク寸前だった。
小説の原稿が入った赤いボストンバッグを持って僕に会いに来た。
「そのバッグに何が入ってるの?」僕はとぼけて訊いた。
「うん、着替えとか、あとは洗面用具だよ」
遠くで踏切がカンカンカンと鳴る。
「ちょっとの間、預かってもらえないかなぁ」
僕は返事をしなかった。
すると踏切の音が、どんどん近くになった。
「‥‥本当はさ、もう死んでるんだよね?」
「え?」
「電車に飛び込んだんだ? 原稿用紙抱えて」
「今どき原稿用紙に手書きしてる作家なんていないよ」
これから就職の面接があると言って、彼は行ってしまった。
バッグの中に入っていたのは、下着と、タオル、そしてどこかのスーパーのポイントカードと、汚れた紙幣の束だった。汚れは排泄物か、血だろう。両方かも知れない。
紙幣は500万円はあっただろうか。
カードは割れていた。そのカードに全額現金チャージしてくれ、とメモがある。
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