憐れみ
僕は何となく、憐れむような気持ちで、冷蔵庫の中に、ビールの缶を積み上げている。
冷蔵庫の中にはビール以外に何の食材もなかった。
その缶ビールは僕が買ってきたものだが、僕は酒は飲まない。
「僕は酒は飲まないんだよ」わざわざ口に出して言った。
僕は見下している誰かのために、そうしてあげたのだ。
僕は何となく、憐れむような気持ちで、冷蔵庫の中に、ビールの缶を積み上げている。
冷蔵庫の中にはビール以外に何の食材もなかった。
その缶ビールは僕が買ってきたものだが、僕は酒は飲まない。
「僕は酒は飲まないんだよ」わざわざ口に出して言った。
僕は見下している誰かのために、そうしてあげたのだ。
早指しの将棋の大会で女性が優勝した。まだ10代のように見える髪の長い女性だ。総当たり式のトーナメントで、1つ勝つたびに、皿(ボウル)が1枚もらえる。女性の背丈よりも高く積み重ねられた皿。全部を持ち帰るのは無理だ。
家の中で自転車を押して寝室まで行った。真っ暗な部屋の隅に自転車を置いた。置くときにガチンと音がして、自転車の周辺がほんのり明るくなった。
昼間だったが彼女はもう寝ている。夜になったら起き出すのかどうかわからない。いちど目を覚ますくらいはするだろう。そのとき自転車を見れば僕が来ていることに気づくはず。(大きな赤い自転車だ。)
僕は寝室を出てキッチンに戻った。壁の一部が透けて外が見える。デパートが並ぶ大通りで、車道が歩行者天国になっている。色とりどりのアドバルーンが浮いている。スマホを向け写真を撮った。しかし写っていたのはただのキッチンのクリーム色のタイルの壁だった。
僕は本物の窓を探した‥‥それは彼女の眠る寝室にあることは知っていた。外へ出る扉も寝室にある。扉の前にベッドがあり、彼女は眠っている。
服を選んでいる女は、スマホで自撮りをしながら電話の向こうの彼氏に、似合うかとかどうとか訊いている。男には同情してしまうが、それは僕の思い込みで、意外と楽しんでいるのかも知れない。
僕は壁に大きなポスターがたくさん貼られている階段をゆっくりと下りた。画鋲が取れてだらんと垂れ下がっているポスターが何枚かある。何のポスターだろう。足元に画鋲が落ちているかも知れない。その2つのことを同時に考えると、それで頭はいっぱいになった。
階段を下まで下りてみると、脱ぎ捨てられたビーチサンダルが‥‥。なぜか裸足だった僕はそのサンダルを履き、階段の上の方を振り返った。
廊下に赤い絨毯が敷かれ、壁も赤かった。天井の色は覚えていない。木のドアが何枚か並んでいる。そこは「関係者」の部屋だと教えられていた。
朝の8時過ぎだった。そのドアが一斉に開き、中からスーツ姿の若い男性たちが出てきた。ワイシャツを着てネクタイを締めているが、上着は着ていない。
僕は彼らを見て、とくに根拠もなく、プロ野球関係者だと思う。選手やコーチではない、スタッフか。
ドアは開けられたまま、中が見えた。想像よりずっと狭い部屋だ、(彼らはここに住んでいるわけではない。)
刀を構えた男があまりにもオドオドしているのを見て熊は吠えるのをやめた。
熊は襲う気をなくしたようだ。それはその男の作戦でもあった。
僕が風呂に入っている間、庭ではいろんなことが起きた。
「熊にも刀を持たせてみよう」ある見物人は言った。
「おお!」「それはいい考えだ」
熊と人間の真剣勝負を見にたくさんの人が集まっていたのである。
「始まるぞ」「見に来ないのか?」
僕を呼ぶ声が聞こえる。
健康診断で体重計に乗った。出た数字を見て看護婦が驚いた。31キログラム。
そんなはずはない。「壊れてるんですよ」と僕は言った。「この体重計は」
だが、たしかめるためにその看護婦が乗ってみると59キログラムであった。まぁそんなもんだろう。
壊れてはいないようだ。
看護婦の心の声が(この28キロの差は何なの?)と。
「僕の方があなたより28センチほど背が高い」
「何てことを口に出すの」
僕は再検査を受けなければならないようだ。
2人の女の子はスマホを見ている。「時報が鳴る」と言う。「地球の裏側で」
「何時の時報が?」
「正午よ」「決まってるじゃない」
僕たちは息をひそめてその時を待つ。
プッ、プッ、プッ、ポーーーーン。
「鳴ったよ」と僕は言った。しかし彼女たちはスマホから顔を上げない。
「鳴ったよ!」もういちど僕は言う。
「そうね」と彼女たち。
「歩き出しても、いいころよね」と1人がまっすぐ前を見て言った。
「どこへ?」
何を言っているのかしら、この人は?(そういう顔をする2人。)
「歩き出す‥‥?」
僕もその表情を真似てみるのだった。
その女が逃げたから僕は追いかけた。僕が追いかけたからその女は逃げた。どちらなのかわからないが、僕がつかまえたからその女はつかまったのだ、僕に。
僕は女の手袋を脱がせた。彼女には指が1本もなかった。ドラえもんのような手をしていた。「指をどこにやった?」と僕は問いつめた。
「手袋を返しなさいよ」
「指の在処を教えろ、そうすれば‥‥」
「指なんかないわ」
そこで僕の同僚が追いつき、女に手錠をかけた。「指を返してやれ」と彼は言った。
「これは指じゃない、手袋だ」
同僚は「‥‥削減」という言葉を口にしたかも知れない。しなかったかも知れない。
「いいから返すんだ」
手袋はいつの間にか真っ赤に染まっている。
研究所に彼らがやって来て爆弾をあちこちに仕掛けていくのを、何もせず僕たちは見守っている。それは「演習」だった。
彼らが引き上げたあとで爆弾の撤去に取りかかった。仕掛けられた爆弾はリンゴのかたちをしていて、それを僕たちは1つずつ透明なビニール袋に入れ持ち寄った。
ビニールに入れるのは爆発したあとで飛び散らないようにするためだ。
「本当に爆発するんですか?」若い研究員の1人は馬鹿馬鹿しくて仕方がないといった様子である。
「というかマジで爆発するんだとしたら、ビニールで飛び散りが防げるわけがないでしょうに」
「お前はあれだ、コロナのときも、マスクで感染が防げるのかと嘲笑っていたクチだな、隠謀論者か」
「あぁわかりました‥‥わかりました、やりますよ」
それからはもう誰も何も言わない。やがて箱いっぱいになったリンゴを先程とは別の「彼ら」が来て回収していくまでは。だが予定されていた時刻はとうに過ぎてしまった。
広い部屋に狭いベッドが何台も並んでいてそこに寝ているのは全員が大人の男だ。女子供はいない。あとになってから僕は野戦病院みたいだと思うが、僕たちはみな病気や怪我で寝ているわけではない。ただ眠たいのである。
1人だけ眠れないでいる男がとなりに横になっていて、僕も目を覚ましているのに気づくと話しかけてきた。
「‥‥とするとあなたはジャック・ロンドンの著作には価値がないとおっしゃる?」
僕はいったいいつこの男に文学の話などしたのだろう。初対面のはずだが‥‥
「そんなこと言いましたっけ? 僕はジャック・ロンドン好きですよ。太く短く生きる人生の儚さというのかな、初期のヘミングウェイに与えた影響も無視できないと思いますし‥‥」
そう答えると彼は大きく頷いて、「心の友よ」と僕を呼び、自分のベッドに入ってくるよう誘った。
「私は医者なんですよ」と彼は言った。やや小声で、
「そして大金持ちだ。残念ながらあなたは貧乏人ですな」
「どうして知ってるんですか?」
「見ればわかりますよ」
僕は彼のベッドに入っていった。と言っても、ただ眠るために。彼のベッドはキングサイズで寝心地もよさそうだ。金持ちというのは嘘ではなさそうだ。
「私はこの間葬式に行って」と彼は話しつづけている。「百万円の香典を出した。金持ちだからです‥‥」
近くに寄ると彼の息は煙草と酒の匂いがして不快だったが、ベッドは最高ですぐに眠くなった。彼はこんなベッドでどうして不眠になどなっているのかわからない‥‥
夢の中で本の頁をめくっていた。それは脚本のようだ。台詞はところどころ滲んで読めなくなっている。頁をめくるたびに読めない台詞は増えていく。そのうち白紙になってしまった。
最初の頁に戻ってもういちど読み直そうとしたがそこも既に白紙だった。本を閉じた。表紙にも何も書かれていない。ならノートとして使おうか。しかしそれはただの1枚の板だ。開くことができない。
古い公会堂で行われた映画鑑賞会だった。入口で靴を脱ぎスリッパに履き替えた。映画を撮影したカメラマンがゲストとして登壇した。だが彼女の話の途中でほとんどの客は帰ってしまった。この近くで同じ映画が上映され、そちらには主演女優が来ているからだ。
最後まで残っていた僕も席を立つ。その直後にカメラマンの話は中途半端なところで終わった。僕はスリッパを履いたまま、靴を手に持って主演女優が来ている会場へ向かった。そこには友達がいて僕の席を取っておいてくれていた。
椅子‥‥ではなかった。会場に椅子はなかった。長いテーブルが用意されていて観客はその上に座る。さらに遅れてもう1人の友人がやってきた。彼はお土産だと言って何人もの観客にサンドイッチと豆腐を配ったが、僕には何もくれなかった。
「この豆腐は、もしかして僕の分?」
「どうしてそう思うんだ? お前が日本人だからか?」
注文した料理がなかなか来ないので厨房を覗いてみると料理人の1人が倒れていた。病気か。仕方ないので自分の分は自分でつくろうと思ったがオーダーは溜まっている。
他の2人の料理人は新米のようで僕が仕切るしかないようだ。「安心して休んでください」と僕は倒れた料理人に声をかけた。「厨房は僕が守ります」
自分の分は後回しにしてオーダーを捌いていった。僕の調理法は簡単で「味の素」で味を整えるだけだ。最後に残った女性の1人客のテーブルに僕は自分でパスタを持っていった。その女性は「とてもおいしい」と言って泣いたが、泣いたのは料理のせいではないだろう。
閉店したあとに僕はやっと自分の料理をつくることができた。大盛りにしたが許してもらえると思う。そのときにはもう食欲がなくなっていたが、レストランのいちばんいい窓際の席に座って時間をかけて食べた。窓からは夜の港が見えてロマンチックだった。
ピアノを弾く僕の前に、もう1台ピアノがあった。そのピアノの向こうに、またもう1台のピアノがあり、世界的巨匠が弾いていた。その向こうは客席だった。
巨匠の演奏が終わった。そのあとも、僕は少し弾いた。
今、僕とその巨匠は、テーブルを挟んで向かい合っている。
テーブルの上には、外された紫色のマスクが1つ、(誰のマスクだろう?)そしてヨーグルトが1つある。
ヨーグルトも紫色だった。ブルーベリーのソースがかけられている。僕は巨匠の目の前でそれを食べる。巨匠の目の色もヨーグルトの色だ。
少女は「夢」と言い、ヒロスエは「有名」と言う。
眼鏡が似合う少女が僕に話しかけてくる隣で、ヒロスエも僕に話をしている。聞いてあげなければならないが、2人同時に話しているので難しい。
いま話題は、眼鏡のことだ。
ヒロスエを無視して、「とてもよく似合うね」と少女を褒める。
「ブス」
「すごいブス」とヒロスエは言った、僕に向かって。少女に対してではない。少女は聞いてない。
少女は「有名」と言い、ヒロスエも「有名」と言う。
ヒロスエは、バッグの中から眼鏡を取り出してかけた。
「似合うね」と僕は言った。
「英語、教えます」と書かれた紙を持った少女が夜の街角に立っている。
「へへっ‥‥一発いくらなの?」サラリーマンふうの酔っ払いが声をかける。
「三千円」と少女。
「いいねぇ。ここで?」
「前金で払ってちょうだい」
「犬って英語で何て言うの?」
「ドッグ」
その金槌は金属製ではない。使い物にならない。僕は金属製のやつを借りにいく。
「その金槌は金属製ですよね?」
「兄ちゃん、変なこと訊くねぇ」
「鋏も、ペンチも?」
借りてきた。鋏はとても切れ味がよい。
それを僕は研ぐ。
気づかないで助手席のドアを開けてしまった。俳優の江口洋介の隣には彼のお兄さんが乗っていた。僕は後席に乗るのだ。
あまりにもそっとドアを閉めたせいで半ドアになってしまう。
「構わないさ」と江口洋介。
そのままアクセル全開で走り出す。
彼と僕は映画に出演していた。彼が主役で、僕は限りなくエキストラに近い脇役だったが。
なぜか江口洋介は今日の食事に僕を誘った。本当にどうしてだろう。僕は彼のお兄さんが来ることも知らなかった。
広場には、囲碁や、将棋を楽しむ多くの人たちがいた。僕は、見るだけだった。
この広場にバスが来ると聞いて、待っている。
しかし、どうも違う。ここでバスを待っている人など誰もいないことに気づいた。僕は何を聞いてきたのだろう。
広場の向こうに舗装された道があり、そこにバス停らしきものもある。待っている人もいる。ここにバスは来ますか? 僕が訊ねると、来ないと言う。
バスはあの広場に来るんだよ。
老人が囲碁をやってるだろう、あの、ど真ん中にさ‥‥
でっかいバスが来て、何もかもめちゃめちゃにしていく。
エレベーターが来ない。待ち合わせに遅れてしまう。
ホテルのエレベーターホールには、僕と同じように、イライラした様子の宿泊客が、多数いた。
「バックスペースに、従業員用のエレベーターがある」
誰かが言った。移動することにした。
非常階段もあったが、そちらは、積み上げられた段ボールの箱で塞がっている。
ロビー脇のカフェで、友人が待っているはずだ。
若い女性2人を紹介してくれるという。
早く行きたい。
あぁ、向こうからやって来た。
階段を上ってくる。
段ボールの山をかきわけ、若い女性が2人‥‥
ショーウインドーの前にバスタブがあり、中年の男性が浸かっていた。
夏の午後僕は大通りを歩いてきた‥‥ブリーフ1枚で歩いていた。
全部脱いで、湯に浸かった。
脱いだブリーフは、信号機にひっかけておく。
信号が青になるのを待っている人々は、信号ではなく、僕のブリーフを見ることになった。
(ちなみに僕のブリーフは見られて恥ずかしい類の下着ではない、念のため。)
中年の男性は僕と入れ替わりに上がった。
バスタブの縁に手をやると垢がこびりついていた。あのおじさんの皮膚組織だろう。僕は手のひらでそれをこすり落した。
綺麗になったバスタブの中におばあさんが入ってきた。
僕は礼儀正しくおばあさんの体を見ないようにしているが、おばあさんは僕に顔を向けて話しかけてくる。
さて、どうすればいいだろう。おばあさんは観たばかりの映画の話をしている。
僕は通りの向こうの時計台を眺めながら、その話を聞いている。
もう4時半になる。仕事に行く時間だった。
僕は失礼して風呂を上がった。信号機にかけておいたブリーフを穿いて出発した。
まっすぐ歩くと仕事場だった。小松菜が1つ入った箱がある。
僕はその箱から小松菜を取り、手に持ったまま仕事が終わるのを待った。
それが今日の稼ぎ(日給)というわけだ。
周囲には僕よりもっといいものが入った箱を手にした同僚もいるが、比べても仕方ない。
年配のクライマーと、山を登る。1000メートルほどの低山だったが、トレーニングが必要だと言われた。何をすればいいのか。結局、何もしなかった。
だがいろいろあって、予定はキャンセルされた。
山は「船山」と言った。トレーニングの代わりに、僕は下調べをたくさんした。船山の歴史、山に伝わる伝承。
僕は1人で、船山ではない、近所の、もっと低い山の麓に来た。山頂を見上げた。
空は灰色だった。曇っているわけではなく、地の色がその色だった。
青くはないのだ。
トイレの鏡で自分の姿を見る。僕は帽子をかぶっている。小さな帽子だ。風に飛ばされないよう、紐をアゴの下にかける。
そこは清潔だがとても暗いトイレだ。外に出た。外も暗い。夜なのだ。(夜は暗いのだ。)
トイレの中で僕はなぜ風のことを心配したのだろう‥‥
おそらく、風は不潔なのだ。帽子も不潔。不潔な風が、不潔な帽子を吹き飛ばす。僕は手を洗う。
僕は清潔になった。
金髪の女子テニス選手が、橋を渡ってくる。後ろ向きに歩いている、テーブルと椅子を引き摺って。世界ランキング上位の、有名な選手だ。
コマーシャルの撮影だろうか、と僕は思う。
いや、違うのだろうか。
僕は彼女のところへ行き、テーブルの引き摺りを手伝う。「引き摺ってくれてありがとう」とお礼を言われる。
「明日、イベントがあるのよ」
「それで今日のうちから準備するんですか?」
彼女はチラシをまとめて何十枚もくれる。僕はそれを丸めて、輪ゴムで留める。
あぁ‥‥昼休みが終ってしまう。
午後は体育の授業がある。もう着替えなければ。
「体育でテニスはやる?」と彼女は訊く。
「テニスはやんないです。なんか‥‥校庭を走らされたりとか」
山道を下っていく。前を走るオートバイが倒木にぶつかって倒れた。たいした事故ではないと思ったがライダーは死んでいて、さてどうしようかと思った。
幸いにして目撃者は誰もいない。僕は事故死したライダーを放置して、先を急いだ。急いでいたわけではないが、行き先はあった。標高がどんどん低くなる。麓の町は蒸し暑かった。
同じお面をかぶった2人組の強盗を見て僕は双子だと思った。
「馬鹿か」
「早く‥‥を出せ」
その声も同じだった。見分けがつかない。
「そっくりだね」と僕。
「んなことは、いいんだよ」
「さっさと出しやがれ」
強盗は拳銃を突きつけた。
「僕にも双子の妹たちがいる」
「はぁ?」
「はあああぁ?」
「そっくりだけど見分けはつくよ」
「これはお面だ」と強盗。
「お面がもう1種類ほしい?」と僕は訊いた。
僕の心臓から流れ出た青い血は、指先に届くころには赤くなった。その途中の過程は見えない。単純に想像すれば紫なんじゃないかと思うが、白や緑でも驚きはしない。
サッカーの試合を見ていた。と思ったら違った。野球だった。9回の裏、ダブルプレーで試合終了のはずだったが、ショートがエラーをした。(送球が逸れたのは指先の怪我が原因だと僕は知っている。)
‥‥指先を切ってから血が出るまで少しの間があく。
1両だけの電車は駅ではないところに停車した。そこにもう1両の電車が来た。そちらに乗り換える必要がある。僕ら乗客は全員下車した。
夜行列車だった。すでに消灯していた。しかしみんな起きていた。(暗闇の中で、目が光っている。)
僕は空いている席を探した。どこにもない。元々の車両にいた乗客より、多くが乗っているようだった。
仕方なく床に寝転がった。電車は動かない。結局、朝になってもそのままだった。僕たち乗客は線路に下り、元いた電車に戻った。そちらには、僕の席はあった。
探偵は娘の学園祭に行き、合唱を聴いた。プログラムを後からもらって、そこに娘の名前を探した。けれどなかった。娘は裏方だったのだ。少しがっかりした。
意外な発見もあった。合唱のメンバーの名前には、みんな「青」の字が入っていた。名前に青がない子でも、名字が青山だっりした。
この世代の流行なのだろうか‥‥
と、彼の娘がやってきた。青リンゴを持って。「はい」と手渡す。「これは?」「食べないと死ぬよ」と娘。何かのジョークだろうがわからなかった。
ベッドの上で、ハードカバーの小説を読んでいる、その僕の前を、いろんな人が通り過ぎる。
1人目は、洗濯物を抱えた女。ふっとこちらを見て、
「その枕‥‥」と独り言のように言う。
枕カバーには、長い髪の毛がたくさんついている。「僕の髪の毛ですよ」と僕は答えるも、女は聞いてない。
洗濯日和だ。
僕は枕についた髪の毛を床に捨てる。
2人目は、スーツを着た若い女。上司と思われる男性に、必死で何か訴えかけているが、彼は素っ気ない。
彼らは「人員削減」の話をしているようだ。
3人目は、酒の入ったグラスを持っている女。見ていると、そのグラスはどんどん大きくなっていく。
巨大な樽のようになった。
それを両手に抱えて女は行く。
彼女のテーブルの周りに円く僕たちは集まった。ファンの差し出す色紙に彼女は順番にサインしていく。最後に僕の番が来た。
僕が差し出したのは色紙ではなく、3つの詩が印刷された1枚の紙だった。
「私の大好きな詩よ」と彼女は喜んだ。
テーブルの下から彼女は1枚の紙を出し僕に見せた。そこには僕の好きな詩が印刷されていた。
「すごい、これは‥‥」
「サインはこっちの紙にするね」と彼女は言った。
握手をしてもらおうと思って出した僕の手にも彼女は何か書いた。詩の文句のようである。
僕は目を開けそれを読んだ。確認した。それからもういちど目を閉じ、夢の中に戻った。
それをよく見せてくれたのは電卓のようなスマホを使っている男だった。電卓に限らなかった。どんなものでも彼が手にするとスマホに変わった。どういうタネや仕掛けがあるのだろう。
僕の買い物カゴの中にある小松菜の葉っぱを1枚彼が手に取ると、それはもうスマホである。彼はそのスマホを使って僕の分の支払いを済ませてくれた。とびきりのサプライズだった。
若い女たちが列をなして、そのマンションに駆け込んでいく、最後尾に、僕たちはいた。
いや、ホテルだった。マンションではなかった。部屋のドアに、数字が書いてあった。7000円、とあるドア。1泊7000円なのか、だとしたら安い。僕たちは3人だ。部屋は和室で、充分な広さがあった。
「ここにしよう」と1人が言った。
「もっといい部屋があるかも知れない」もう1人が言った。
女客ばかりのホテル、数少ない男たちが、その部屋の前に集まって、トランプのゲームをしている。僕たちも参加して、僕が勝った。賞品に、ロープをもらった。そのロープを使って、僕はホテルから出た。
山頂にいた。どうやってそこまで登ってきたのか。記憶はない。気づくと痩せて背の高い男と一緒に、景色を眺めていた。脇にオープンカーが1台、停まっていた。
しばらくして男は乗り込み、エンジンをかけた。空気が汚れる。空気が・汚れる。口には出さなかったが、顔には出た。僕はその顔をしたまま、隣に乗った。別の顔は、置いてきてしまった。おそらく、来る途中のどこかに。彼にしても、同じだ。僕たちはそのもう1つの顔を探しながら、ゆっくりと、山道を下った。
色と形は椎茸に似ている。
香りはない。
小銭入れから生えてきたキノコは食べられるのか。
札入れには生えてない。このキノコは何を養分にして育ったのだろう。
小銭たちが養分になり減ってしまったのだろうか。数えてみたが、元からいくら入っていたのかなど覚えていない。
白人の同僚たちが、チェックなしで入れる、その施設に出入りするのに、検査が必要だと言われたのは、黒人の私に対する、嫌がらせか。
桟橋の先まで歩いて、飛び込めと言われた。
「飛び込めって、どこに?」
「決まってんだろ、海に」
「なぜ?」
「海水で消毒するのさ」
ははははは、と笑い声。
私は飛び込んで、‥‥上がった。
「よし」と彼らは言って、今度は私の濡れたスーツに、白い粉を吹きかける。
これも消毒というわけですか?
そうだよ、寄生虫がいるかも知れないからね。
通りに面した広いワンルームは、元は店舗だったのだろう、シャッターが下ろせるようになっている、昔パリでこんな物件に住んだことがある。
シングルのベッドが2台、その間にテレビが置いてあり、『ガンダム』が放映されている。僕たちは、しばらく無言でアムロとシャアの戦いを観た。
それから、部屋の前の道路に、2人で座り込んで、話した。彼は就活中の東大生だ。
「いや、自分の就活は、どうでもいいんだ」と言い、タバコを吹かす。
町は灰皿じゃないぞ、と何かの標語を思い出した。
「他人の妨害をするのが楽しいんだよ」
「ふーん」と僕。
トイレに行列ができていた。女だけでなく男も並んでいるのを、珍しいなと思い横目に通り過ぎた。しかしそのあとで、僕もトイレに行きたくなった。
引き返してみると、行列は消えていた。そこはトイレではなくジャズ・バーだった。「トイレの中でジャズが聴けるんですか?」と訊ねる僕を、従業員が馬鹿にしたような目で見た。
案内された席にはパンが2つあった。ペットボトルに入った白ワインがあり、ワイングラスではないグラスが用意されている。僕は酒は飲まない。パンもよく見ると一口だけ齧ってあった。僕はそのパンを皿ごと後ろのテーブルに下げた。
その席に若いカップルが案内されてきた。カップルは食べかけのパンにかぶりつき、ワインをがぶ飲みした。そうして金も払わずに出て行く。請求書は僕のところに回ってきた。
そのおっさんには可愛らしい女のコのような名前がつけられていた。名前だけではない。外見も可愛かった。まるで女のコのようで、おっさんには見えなかった。胸もふくらんでいた。トランスジェンダーというやつかも知れない。
「君は本当におっさんなの?」と僕は訊ねた。
「私はおっさんよ」
「証拠を見せてくれよん」
「くれよんって何よ」
「証拠を」
「私がおっさんである証拠が見たいと言うの?」
「そうだよ」
「女のコである証拠を見せろと言う人は多いけれど‥‥」
「まずおっさんであることの証明が先さ」
迷うおっさん。
おっさんは僕に好意をよせていた。僕もおっさんに興味があった。
「私を抱きしめて。そうすれば私が何であるかわかるわ‥‥」
言われたとおりに抱きしめた。するとおっさんの鼻息は荒くなった。
コンサートは生演奏ではなかった。モニターの向こうでピアニストが演奏して、僕たちは遠く離れたところからそれを観た。ほとんど何も聴こえなかったのは、沈黙が奏でられたのだ。
演奏が終わった。ピアニストが直接挨拶に出てくるという話が聞こえ、観客はサインをもらおうとモニターの方へ近づいていった。行列ができていた。やっと僕の番がきた。ピアニストはモニターの画面の中から手を伸ばし、僕の手を握った。やけに長い手だった。そして言った。「あなたもこっちに来なさいよ」
橋を渡って向こう側へ行こうとしている。けれど行けない。まっすぐ歩いているのに元に戻ってしまう。
これで何回目だろう‥‥
橋のちょうど真ん中に女の子がいる。彼女と手を繋ぐ。そのまままっすぐ行くが、また出発点に戻っている。
何も言わず去っていく少女に、「こっちでいいの?」と僕は訊く。
返事はない。僕はもういちど橋を渡ろうとする。中間地点には、別の女の子が待っている。
友人と自転車で走っている。彼の家に行くのにだいぶ大回りして走った。「ここから入れば近道だよ」と僕は指摘した。「たいして変わらないさ」と彼は譲らなかった。
「800メートルくらいは違うかな」
「たった800メートルだろ」
「まいいか」
彼の家に着いた。まず庭の水まきを手伝ってくれと言われた。白いバラの庭園だった。バラと一緒にキャベツを栽培している。彼はバラの生け垣に近づき、白い花をむしって食べ始めた。
僕の履いていたオレンジ色のスニーカーを見て友人が「いいな」と言った。
「サイズはいくつ?」
「23.5cm」
「小さくね?」
「まぁ、伸びるから」
「伸びるつってもよ」
「まぁねぇ」
彼は同じものをネットで注文したがサイズは33cmしかなかった。
さすがにデカいと言いながら新聞紙を詰めて履いている。
僕たちは靴を脱いで大きさを比べ合った。
車窓に、砂の壁が見える。電車はゆっくり走っている、砂のトンネルの中を。
窓を開け手を伸ばすと砂に触れた。僕はその砂に指で文字を書いた。ひらがなで、1文字ずつ。意味の通る落書きをしたかったけれど、電車はスピードを上げた。やがて砂のトンネルを抜ける。緑の草原に出た。そのタイミングで窓を閉めたが、思い直して、もういちど開けた。
終点の1つ前の駅で多くの乗客が下車した電車の中はそれでもまだ混んでいる。
「イギリス人」という名札をつけた綺麗な女の人が座席に座っているのを除けば、全員が日本人で、日本人は座ったりしない。
終点についた。みんな改札を目指して走りだす。
僕も走らなければならない、という気持ちになったが、
「イギリス人」はまだ電車の中で座ったままだ。
私の不倫相手が亡くなったことを夫は知っていて、その日、私たちは黒い服を着た。ファミレスに行き、お通夜のようなことをした。
ずっと以前から私たちの間には会話がなかった。しかしその日だけは話が弾んだ。昔に戻ったようだった。
私は離婚届を書いていて、「お通夜」の終わりに夫に渡した。夫は黙って判を押し、私に返した。
すべては終わったんだなと思う。
帰宅すると、いつものように夫は私を殴った。私はとうの昔に、痛みも悲しみも怒りも、何も感じなくなっていたのだが、その夜だけは違った。
それに気づいた夫は、いつも以上に執拗に、強い力で私を殴る。それは私が望んでいたことでもあった。
タクシーの運転手が私を待っている。
彼の体毛は濃い。私は卑猥な想像を止められない。
私は全然違う場所で違うものを待っている。
暑い日だった。
駐車場に戻る。運転手はまだ私を待っていた。
「お弁当を買ってきたよ」と私。
タクシーの中で私たちは食べる。
インド料理のサモサの中にキムチが入っている。
「うまいな」
「意外に」
タクシーの屋根につけられた扇風機が回っている‥‥
「食べたら出発しよう」と運転手。
「あ、でもまだちょっと待って」と私はお願いした。
絵の具と、絵筆を置いてきてしまったのだ、どこかに。
ロボットの処刑だった。多くの見物人が集まった。中には小さな子供もいた。
「あまりに残虐なのではないか」「ロボットは痛みを感じないし、血を流すわけでもない」「それはそうだが」そんな声が聞かれた。
身長2メートルほどのロボット。死刑だなんて、何をやらかしたのだ。刑場の真ん中に突っ立っている。
動けないのは、ネジを何本か抜かれているせいだろう。拘束はされていない。
巨大な斧を持った、裸の死刑執行人があらわれる。
彼は一撃で真っ二つにするのだ、ロボットの鋼鉄の体を。
マジックミラーの向こうに標的がいた。全部で6人。自分たちがどこから狙われているのかわからずパニックになっているようだ。1人ずつしとめていったが2人逃げられた。
暗殺の指令を出した上司にそのことを報告した。誰を取り逃がしたのかと上司は訊いた。
「1人は女ですよ」と僕は言った。地味なスーツを着た刑事だった。もう1人は男で、制服を着た警官だ。
☆
彼が僕に見せた千円札のナンバーは66666…だった。
「お前の命は俺がもらう、という意味だ」
「ほぉ、すごいですね」と僕は相手にせず写真を撮った。
「それはどういうつもりだ?」
「いえ、記念に」
「俺がこの千円を使ったときお前は死ぬ」
「じゃ今日は僕が奢ります」と僕は言った。
安い居酒屋だった。
報酬がもらえる。報酬はコインだ。
「なら、いらない」と僕は言う。
「なぜだ。もらうべきだ」
彼は犬だ。犬にコインが何の役に立つ。
「そのとおり。しかしお前は人間だろう」
そうだった‥‥
お前は
「お前は執念深い人間だな」
「人間というのはそういうものなのさ」と僕は答えたが
執念深いって何のことだ?
「あんたも同じくらい執念深い犬だよ」
僕たちは崖をよじ登っている。
崖の上で報酬が待っている。
僕にはコイン。
天文台の壁に落書きがされた。壁は白くて薄かったのでそれは内部から透けて見えた。まだ小さな娘が興味を示したが、何が書いてあるのか説明することは憚られた。できることなら見せたくもなかった。
しかしそれはアートでもあった。生命の真理であった。老人であった。彼はさらに老いて植物になった。その植物と私は結合する。そしてお前が生まれたのだ、と私は娘に説明した。
その後で落書きを消した。
娘は私を手伝わなかったが、私は何も言わなかった。
その動物を風呂に入れ洗った。茶色だと思っていた毛皮は赤かった。
「ありがとうございます」と動物は言った。「おかげで綺麗になりました」
「実はこれからボーイフレンドと会うのです」
「えっ、あああ、君、女の子だったの?」
やば‥‥変なとこ触っちゃったな。
召使いと一緒にボーイフレンドがやって来た。(金持ちなのだろう。)
彼も召使いも茶色かった。
真っ赤に変身したガールフレンドを見て満足げな様子。
「照明を、もっと!」 召使いが僕に言った。
「恥ずかしい」とガールフレンドは照れた。
僕が台所に立ち料理をしている間、家族は居間のテレビで野球中継を見ている。みんな試合に夢中だ。居間に大きな赤い鳥がやって来たことにも気づかない。
「みなさまのリーダーにお話があるのですが」と鳥は言った。
僕は自分の分だけをつくって1人で食べている。鳥はこちらに顔を向け
「あなたさまが?」
「は?」ついゲップが出てしまった。
「おぉ! わたくし、ゲップというものを初めて聞きました」
「いや、失礼」
「いえいえ、ご存知のように、鳥はゲップをしないのです」
鳥は近づいてくる‥‥