外国語は黒いサングラス。そう題された文章を読んだことがある。20年近く前の話。どこで読んだのか、何という名前のライターさんが書いたのか、全く憶えていない。本当に申し訳ない。引用先も提示できぬままここに書くことを、どうか許してください。
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「日本のファンの片言の英語に付き合っている内に、自分の言葉がどんどんシンプルになっていくのが興味深かった」
この前インタビューした、ハリウッド俳優の言葉がいつまでも印象に残っていた。‥‥記事はそんな書き出しで始まる。
筆者は通訳の仕事をしているのだ。
そして、普段は人見知りの激しい自分が、外国語を使う仕事をする時には非常にオープンな性格になれることを、どうしてなのかと不思議に思っている。
そんなある日、筆者は一冊の本と出会う。自閉症の子供を治療する精神科医の記録だ。
子供達は、本当の自分を、少しでも他人から遠ざけようとして、極端な猫背になって暮らしていた。
ある日のこと、ふと黒いサングラスをかけてみた彼の患者のひとりが、こんなことを言うのだ。
「人の顔が見える!」
「‥‥?」
「先生、ぼく、人の顔が見えるの!」
精神科医は暫くその子に、一日中サングラスをかけたまま、「自分をとり戻させ」、生活させてみた。勿論、その数カ月後には、彼がサングラスなど必要としなくなっていたことは、言うまでもない。
この話を聞いてなるほどと思った。僕も視力0.1の裸眼で街に出ると、妙にいつもより人と話がしやすかった経験があるからだ。
外国語にもそれと同じ効果がある。
筆者は語る。不自由な言語でコミュニケーションをとろうとする時、私は必死になる、と。
一寸でも、言葉を惜しんでいる暇などない。
無論仕事として使うなら、最低限の文法は守らなくては嘘だが、それでも外国語は私にとっての真っ黒いサングラスなのだ。
少ない語彙を最大限に活用すべく、私は無我夢中になる。世間体の厚い衣をバリバリと破って、コミュニケーションは生の姿を見せる。
黒いサングラスをかけ、外国語を使う時、私はやっと本当の私になれるのだ。
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引用ばかりで申し訳ないが、もう一つ。こちらはデリケート・サイン(http://delicate.exblog.jp/)というブログから
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今頃ですけど、Delicate Sign というタイトルについて。
デリケートサイン、水戸黄門でいう印籠のようなもので、これを使ったら、ある程度思ったことをまんま言っても大丈夫なんだよ〜みたいな自分への暗示なんです。よく「自分バカだから」と言っておくことでバカ丸出ししちゃってもフォロー楽、という非正攻法がありますけど、「繊細」なんだから、ちょっと思い切ったこと言っちゃっても容赦してくれるよね? ジッと聞いてくれるよね? そんな仮想の安全ゾーンを作る「デリケートサイン」。
アレですね、「怒らないから言ってごらん?」と言われて、やっと話し出すコドモみたいな感じですね。デリケートサインを出して「言う」練習するうちに、少しずつ方法を覚えて、最終的にはそんなサインを出さなくても、伝えたいことを自然に伝えられるようになるんじゃないか、と、そんな希望的なこと、思ってます。
というのも自分、日常生活の中で負の感情を人前で出さないようにしてきちゃって、ココロ押さえたまま大人になっちゃった。 笑ったりは倍に多いから、等身大の軟弱な自分と人前の安定した自分とが、ものすごく乖離しちゃって、自分の中の行き来がすごく大変になってる。
極端に自分の内側に負荷かけてバランス取ることで、自分は「大人っぽい子供」を保ってきた。 問題起こしたこともないから誰に心配されたこともない。 言われたことやるから叱られたこともない。 さっきまで泣いてて食事も喉通らないほど壊れそうなのに、表面は余裕ある振る舞いをしてしまう。 ここで耐えられず泣き出せたらいいのに。
そう思いながら未だに 「大人っぽい大人」をやってます。 「っぽい」。 つまり、自分は根っからの大人ではない。 もうそれで生きる練習をして、それで認定もらっちゃってるから、”個人的な気持ち”を出すことが出来ない。
何故出来ないのか。伝えたい気持ちが、長年のことで、重くてもう消えてしまったのもひとつ。やっと力を蓄えて伝えた時に今度は伝わらなかったら、というリスクの大きさを考えるのもひとつ。負の感情を出すことは、持っているコップを目の前でワザワザ落とす行為に思えて抵抗覚えるのもひとつ。どんな理由も、もう、考えることさえ疲れた。
ほとほと疲れてベッドに伏せる時、よく ボーっとこう思うんです、
「 私、全然平気じゃない。 全然大人じゃない。 このサインを、どうか・・・ 」
この「泣き」がまんまタイトルになりました。 いつしか実生活でちゃんとサインを出せるように。ちゃんと人に読み取られるようなサインを。自分が壊れないためのサインを。 今はまだリスク背負えないから、踏み込み禁止のハンデを示すデリケートサインしかないんだけど、いつか、絶対に。じゃなきゃ、世の中いい人いっぱいいるのに、ちゃんとぶつからなきゃオモシロクないじゃない?
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以前2/15の記事で僕は、「どんな言葉でコミュニケーションがとれるかで全ては変わる」と書いた。「あらゆる価値は転換し、世界はその姿を変える」と。
クソ生意気なことを言ったものだ。
自分の傲慢さ加減が恥ずかしくなる。
僕達はみんな、その言葉を発する前の段階で必死なのだ。黒いサングラスをかけたりして。慣れない外国語を使ってみたりして。
サングラスを投げ捨て、素顔のまま、母国語でコミュニケーションのとれるほど強い人間が、いったいどこにいるというのか。
デリケートサイン抜きで裸の自分を人前に曝せる奴を、「勇気がある」とは言わない。恥知らず、単にそれだけ。
みんなどこかで、某かの「デリケートサイン」を発している‥‥
ブログサイトというのは、単なる日記ではない。今頃気づいた。これは、誰にも理解されたくないわけではないという、僕達の、黒いサングラスである。
自分の殻の内側に籠ったまま、モノを「言う」ための、一番新しいサングラスなのだ。
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というわけで今日は徹底的に打ちのめされた。デリケートサインさん、コメントありがと。でもあなたの言葉に比べたら、ぼくのWeblogなど何の価値もない。今夜は眠れるかな? とりあえず2、3時間ほど自己嫌悪に浸ろうと思う。