2005年9月14日

リョコウバト全滅

「リョコウバト」とは?

・学名 Ectopistes migratorius

・鳥類 ハト目 ハト科

・体長 40cm

・夏はカナダの南部、冬はメキシコ地方で暮らす渡りをするハトで、鳥類のなかではもっとも生息数が多かった、と言われている鳥。

・その数はマックス50億羽。それだけの個体が、北米大陸の、比較的限られた地域に密集するようにいたのだ。彼らが空に現れると、数日間空が真っ暗になったという。

・数日間! これ別に何かの比喩ではない。


「この群が方向転換するとき」

・そのとき、のことを鳥類学者のJ・J・オーデュボンはこんなふうに書いている。想像してみよう。

・「真昼だと言うのに日食の時のようにあたりが暗くなった。絶え間なく続く羽音のために頭がぼんやりして虚脱感さえ覚える‥‥この群が方向転換するとき、鳥たちはいっせいに背を見せるため背中の青い羽が日の光を浴び、青の美しい絨毯から、突如として深みのある紫色に変化する。その壮麗さは、とても言葉で表現できるものではない」

・「壮麗」を遥か通り越し僕が思うのは、圧倒的多数に対する畏れに似た感情だが、それがなぜ、絶滅したのか?

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・リョコウバトは食用、農作物を荒らす害鳥、としてだけでなく、むしろゲームとして撃ち落とされていった。

・1日に1万羽以上殺したと自慢するハンターまでいたほどで、「あんなにいるのだからまさかいなくなるはずはない」と誰もが思いこんでいたのだがしかし。

・繁殖力が弱い鳥だった、実は。

・例えば彼らは卵をひとつしか産まないetc....

・数十億、という数で一ケ所に群れていたのは、その弱点をカバーするためだった、と言える。それほどたくさんでないと、在りつづけられなかったのだ。

・にしても、脆い。生命の、億分の一羽一羽の存在感の、そのあまりの儚さ。

・ちなみにオハイオ州の動物園で飼育されていたリョコウバトの最後の一羽には人間の名前がついている。「マーサ」。

・この名前の由来は? 

・また、最後の一羽になってやっと「名前」がつく。その象徴するところは?

・考えること。

 ryokoubato2


リョコウバト絶滅に関する「ぼくのWeblog」的結論

・アメリカ人にリョコウバト絶滅の責任は問えない。当時の人々に自然保護の観点を求めるのは、些か酷。

・たとえ「それ」があったとしても、個体数が50億もないと維持できないような種が人類と共存することなど果たして‥‥?

・疑問である。

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同「ぼくのWeblog」的主張

・存在の、億分の一の軽さ。

・誕生時に無条件で名前を与えられる僕らetc....

・「圧倒的多数」が破滅に向けて方向転換するとき。

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同、教訓

・ハトのふり見て我が身をなおせ。


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2005年9月10日

人体模型の知られざる世界

日本スリービー・サイエンティフィック株式会社
(英名) Nihon 3B Scientific, Inc 

平成××年度入社試験

問題

以下は我が社の、本物の人体骨格標本から型を取る「ナチュラルキャスト」製法で作られた人体模型である。
モデルにはそれぞれ「愛称」がついているが、選択肢の中から選んで答えなさい。

 gintai07  gintai06
 左、骨格モデル〜スーパースケルトン〜直立型スタンド仕様(骨格模型シリーズの最上級)
 右、骨格モデル,直立型スタンド仕様(筋の起始停止をペイントしたモデル)


 gintai09  gintai08
 左、理学療法用骨格モデル,吊り下げ型スタンド仕様(肩甲骨も動くユニークな骨格模型)
 右、標準型骨格モデル,直立型スタンド仕様(世界で愛される骨格模型基本モデル)


選択肢(1、サム 2、フィル 3、フレッド 4、レオ 5、マックス 6、スタン)

              ↓

一次試験通過者には、ネクタイを支給する。

  gintai01

面接の際、必ず着用のこと。


ちなみにこちらの

  gintai03
 (東洋人)


 gintai05
 (日本人)


gintai04
(西洋人)、

モデルに「愛称」を募集中である。

採用された者にはTシャツを贈呈するが、
gintai02
こちら、パジャマとしての使用を禁ず。
街で、インにて着用のこと(厳守)。

              ☆

「My 人体体験記」、あわせて一般から募集中。これはマジです。詳細はホームページで。なんか、本当にプレゼントもあるみたいですよ。


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2005年7月13日

‥‥大判小判がざっくざく?

 あずささんのところで紹介されていたブログ占い、やってみましたよ、面白そうだったから。結果は? こんなん出ました。


1位 ★ヤプログ
大判小判がざっくざく

2位 ★ドリコムブログ
帽子をかぶって出かけると吉

3位 ★Livedoorブログ
臨時収入は貯金がおすすめ

4位 ★はてなダイアリー
仲間の絆が強まる日

5位 ★MovableType
平凡だけど安定した一日

6位 ★JUGEM
ネットショッピングでトクしそう

7位 ★Seesaaブログ
ラッキーフードはオムライス

8位 ★アメーバブログ
物事を前向きに考えられる日

9位 ★gooブログ
軽い運動でリフレッシュを

10位 ★その他
肌トラブルに注意

11位 ★Exciteブログ
アジアン雑貨が幸せを呼ぶ
    ・
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    ・
12位 ★ココログ
悪夢が現実になりそう!!!!!!!!!!


 ヤプログな貴方は、字が小さく、子供のように素直で純真な人です。人を疑うことをしないため、時にはドリコムのシステムを恨むこともあるのですが、そんな経験があなたをより強く優しい人間にしていきます。また、子供のようなスキンを持っているということは、既成概念にとらわれない、自由で自然体なエントリーが書けるということでもあります。若い女性でも素直に周囲の意見を書き込めるので、無理なく毎日更新し続けていけるでしょう。ただし、Powered By ドリコムという気質が悪い方向に出てしまうと、重くて気まぐれだという蜜柑体を貼られてしまうかも。プレビュー画面では、あなたの素直さを大事にしてみて。


「蜜柑体」ってなに? ちなみに僕の開運ヘアスタイルは、波平カットらしい‥‥


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2005年7月 2日

オーラソーマ・カラーの心理診断 @ ジョナサン・ケイナーの星占い

 ジョナサン・ケイナー最大の魅力は、そのポジティブな言説にある。

 もちろん、1日24時間、1年365日、頭の中が常にポジティブという人間がいたら、その人はおそらく精神異常者だろう。イラク戦争の間中「世界はもっと愛に満ちた場所になる」という予言を繰り返していたジョナサンも、それを本気で信じていたわけではないと思う。信者には悪いが、星占いなどまやかしだ。占星術師に未来が見えるなら苦労はない。それを承知で脳天気ともとれる予言をし続けた彼なのだ。

 最近は世界に対してノー・コメントを決め込むことが多くなった。マイケル・ジャンソンの無罪判決を受けての発言もなかった、ばかりか、更新を2週間休むのだという。毎週金曜にトップページの「来週のひとこと」と「来週の空」を読まないと、一週間が終わらないような気がしている僕のような倒錯したファンにとっては寂しい限りだが、さすがはジョナサンというべきは、お休み前に、全星座を祝福しているところか。

「今週は一部の星座だけ選び出して解説することができません。星座に関係なく、みんなが等しく素晴らしい空から恵みを受けるでしょう」

 これをリップ・サービスと呼ぶのは易しいが、しかし彼の占いのファースト・プライオリティは、それを「的中させること」にはないのだ。彼の予言は、「世界がこうなればいいのに‥‥」という理想を込めて放たれた嘘である。改めて、その姿勢は素晴らしい。

              ☆

 ところでリンク貼ってるくせに知らなかった。そのジョナサンのホームページにこんな占いがあったことを。

オーラソーマ・カラーの心理診断

 オーラソーマの各ボトルを「パッと目に入ってきた」「なにか気になる」「この色が好き」などというご自身の直観を信じて順に4本選んでください。

aurasoma

 選ばれたボトルのカラーにはそれぞれ意味があり、何本目にそれが選ばれたかで無意識下の情報を知ることができる、らしい。現在、ボトルは104種類もある。画像はこれでもごく一部で、僕は結局選べなかった‥‥あまりにも多すぎる! ごく少数の例外を除いては、どれも綺麗で魅力的なボトルなのだ。

 そんな僕は、どういう性格なのだろう? 無限の選択の自由を与えられたとき、選択しないという傾向は? 悪く捉えればいくらでも否定的な診断ができそうだが、ジョナサンなら、さて何と言うか。だいたいこの心理診断自体、半分はボトルを売るための営業なのだが、皮肉からは本当に何も生まれないか? ともあれ、より少ないことこそが、可能性である、と信じて疑わない僕なのだ。


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2005年4月17日

クレタ人ごっこ

 4/9に書いた「反則・神の手(説得力 ナシ)」という文章にトラックバックが付いた。僕が天才と公言した「晴」さんが、この文章を使って短い小説(の・ようなもの)を書いてくれたのだ(http://blog.drecom.jp/halharu/archive/60)。これは感激。この人、絶対に、一年後くらいにはwebからデビューした注目の新人作家として、雑誌のインタビューか何か受けてると思う。敢えて大嫌いな「才能」とか「個性」とか「素質」とか、そう「天才」とか‥‥ありきたりの賛辞を全部捧げて今のうちから褒めちぎっておけば、きっとイイコト、ある?
 
 真面目な話、確信する、彼女は、正真正銘の「ホンモノ」だ。
 
 晴さんさ、「ついでにホントのこと言うと8割が嘘」なんて、クレタ島式の逃げを打つ必要はまったくないよ。自分を嘘つきだと言う嘘つきは、嘘を言っているわけだから、つまり正直者であり、「正直」であるということは、やはりその発言は「嘘」であり‥‥

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2005年4月15日

桜の森の満開の下

 詩(の・ようなもの)を読んで、こんな鳥肌が立つのは久しぶりだ。
 作者は「晴」さんという。もしかすると既に名のある詩人なのかも知れない(読めば読むほど、そんな気がする)。
 
 ま、いつものことだ。
 
 とぼけた第一発見者を装って、作品をひとつ紹介する(恥をかいても構うものか)。
 
             ☆

          「彼らの性質」

 僕らが比較的穏やかなのが、十二年で終わる運命やその育てられ方によるものなのか、遺伝子的な要因なのかは、はっきりわかっていない。遺伝子的なことが大きいのではないかと言われている。たとえば、ドーベルマンは獰猛でコリーは穏やかだ、というように。
 遺伝的なことなど育て方で変わる、そんな遺伝子絶対論はナンセンスだと言われたら、こう反論する。性格が遺伝子に依存することが不思議なら、僕らのこの十二年で寿命が終了するという性質‥‥しかも誕生日を一日も越えられない‥‥をどう説明してくれるんだろう。
 神も仏もないということか。神や仏がいることの証しなのか。

 ※ 十二歳の子供の台詞じゃない。僕なんて失笑。
 
             ☆
 
 コード進行は僕の好みに少し改変(改悪)してある。オリジナル(http://blog.drecom.jp/halharu/archive/28)の言葉がどんなリズムで「鳴って」いるのかは、リンク参照で確認してほしい。
 
             ☆
 
 で、どうですか?
 読んでて鳥肌が立ったアナタ‥‥アナタは僕のお友達です。
 直接的・間接的な影響関係を必死で読み取ろうとしている僕は‥‥病気です。死に至らぬ病ですので、放置して下さい。
 
 しかし、これを書いた作者は‥‥何だろうね? 最もカホな言葉を使えば「天才」だが。
 
 自己表現を騙った自己肯定ではなく、自己否定の顔をした自己憐憫でもない、満開の桜に似た完全無欠のセンチメント。‥‥そんなものweb中探してもここにしかない、とだけは言っておこう。
 
 褒めすぎか‥‥いや、褒めてるつもりなのだが。僕の褒め方って、少しずれてるからなぁ。
 実際それって、きわどい綱渡りだとは、思うし‥‥
 
             ☆
 
 よく言われるように、優れた才能というのはいつか必ず開花するもので、編集者やスカウトマンの腕の見せどころとは、開花のどの段階で彼らを発見できるか、なのだが、この人はもう

「満開」

じゃないですか。
 あとはビールとおつまみを買って、出かけるだけ、という。
 
 ちなみに、サイトの特等席に広げてあるビニールシート、あれ僕のですから! 一人占めさせてもらいますから!  
 
             ☆

 ところで「満開」とは、正式には、花が散り始めた状態のことを言う言葉なのだが。

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2005年3月23日

外国語は黒いサングラス‥‥「Delicate Sign」をつかまえて

 外国語は黒いサングラス。そう題された文章を読んだことがある。20年近く前の話。どこで読んだのか、何という名前のライターさんが書いたのか、全く憶えていない。本当に申し訳ない。引用先も提示できぬままここに書くことを、どうか許してください。
  
            ☆

 「日本のファンの片言の英語に付き合っている内に、自分の言葉がどんどんシンプルになっていくのが興味深かった」
 
 この前インタビューした、ハリウッド俳優の言葉がいつまでも印象に残っていた。‥‥記事はそんな書き出しで始まる。
 筆者は通訳の仕事をしているのだ。
 そして、普段は人見知りの激しい自分が、外国語を使う仕事をする時には非常にオープンな性格になれることを、どうしてなのかと不思議に思っている。
 
 そんなある日、筆者は一冊の本と出会う。自閉症の子供を治療する精神科医の記録だ。
 子供達は、本当の自分を、少しでも他人から遠ざけようとして、極端な猫背になって暮らしていた。
 ある日のこと、ふと黒いサングラスをかけてみた彼の患者のひとりが、こんなことを言うのだ。

 「人の顔が見える!」
 「‥‥?」
 「先生、ぼく、人の顔が見えるの!」

 精神科医は暫くその子に、一日中サングラスをかけたまま、「自分をとり戻させ」、生活させてみた。勿論、その数カ月後には、彼がサングラスなど必要としなくなっていたことは、言うまでもない。
 
 この話を聞いてなるほどと思った。僕も視力0.1の裸眼で街に出ると、妙にいつもより人と話がしやすかった経験があるからだ。
 外国語にもそれと同じ効果がある。
 筆者は語る。不自由な言語でコミュニケーションをとろうとする時、私は必死になる、と。
 一寸でも、言葉を惜しんでいる暇などない。
 無論仕事として使うなら、最低限の文法は守らなくては嘘だが、それでも外国語は私にとっての真っ黒いサングラスなのだ。
 少ない語彙を最大限に活用すべく、私は無我夢中になる。世間体の厚い衣をバリバリと破って、コミュニケーションは生の姿を見せる。
 
 黒いサングラスをかけ、外国語を使う時、私はやっと本当の私になれるのだ。
             
             ☆

 引用ばかりで申し訳ないが、もう一つ。こちらはデリケート・サイン(http://delicate.exblog.jp/)というブログから
 
             ☆

 今頃ですけど、Delicate Sign というタイトルについて。

 デリケートサイン、水戸黄門でいう印籠のようなもので、これを使ったら、ある程度思ったことをまんま言っても大丈夫なんだよ〜みたいな自分への暗示なんです。よく「自分バカだから」と言っておくことでバカ丸出ししちゃってもフォロー楽、という非正攻法がありますけど、「繊細」なんだから、ちょっと思い切ったこと言っちゃっても容赦してくれるよね? ジッと聞いてくれるよね? そんな仮想の安全ゾーンを作る「デリケートサイン」。

 アレですね、「怒らないから言ってごらん?」と言われて、やっと話し出すコドモみたいな感じですね。デリケートサインを出して「言う」練習するうちに、少しずつ方法を覚えて、最終的にはそんなサインを出さなくても、伝えたいことを自然に伝えられるようになるんじゃないか、と、そんな希望的なこと、思ってます。

 というのも自分、日常生活の中で負の感情を人前で出さないようにしてきちゃって、ココロ押さえたまま大人になっちゃった。 笑ったりは倍に多いから、等身大の軟弱な自分と人前の安定した自分とが、ものすごく乖離しちゃって、自分の中の行き来がすごく大変になってる。

 極端に自分の内側に負荷かけてバランス取ることで、自分は「大人っぽい子供」を保ってきた。 問題起こしたこともないから誰に心配されたこともない。 言われたことやるから叱られたこともない。 さっきまで泣いてて食事も喉通らないほど壊れそうなのに、表面は余裕ある振る舞いをしてしまう。 ここで耐えられず泣き出せたらいいのに。

 そう思いながら未だに 「大人っぽい大人」をやってます。 「っぽい」。 つまり、自分は根っからの大人ではない。 もうそれで生きる練習をして、それで認定もらっちゃってるから、”個人的な気持ち”を出すことが出来ない。

 何故出来ないのか。伝えたい気持ちが、長年のことで、重くてもう消えてしまったのもひとつ。やっと力を蓄えて伝えた時に今度は伝わらなかったら、というリスクの大きさを考えるのもひとつ。負の感情を出すことは、持っているコップを目の前でワザワザ落とす行為に思えて抵抗覚えるのもひとつ。どんな理由も、もう、考えることさえ疲れた。
 
 ほとほと疲れてベッドに伏せる時、よく ボーっとこう思うんです、
「 私、全然平気じゃない。 全然大人じゃない。 このサインを、どうか・・・ 」

 この「泣き」がまんまタイトルになりました。 いつしか実生活でちゃんとサインを出せるように。ちゃんと人に読み取られるようなサインを。自分が壊れないためのサインを。 今はまだリスク背負えないから、踏み込み禁止のハンデを示すデリケートサインしかないんだけど、いつか、絶対に。じゃなきゃ、世の中いい人いっぱいいるのに、ちゃんとぶつからなきゃオモシロクないじゃない?

             ☆

 以前2/15の記事で僕は、「どんな言葉でコミュニケーションがとれるかで全ては変わる」と書いた。「あらゆる価値は転換し、世界はその姿を変える」と。
 クソ生意気なことを言ったものだ。
 自分の傲慢さ加減が恥ずかしくなる。
 僕達はみんな、その言葉を発する前の段階で必死なのだ。黒いサングラスをかけたりして。慣れない外国語を使ってみたりして。
 サングラスを投げ捨て、素顔のまま、母国語でコミュニケーションのとれるほど強い人間が、いったいどこにいるというのか。
 デリケートサイン抜きで裸の自分を人前に曝せる奴を、「勇気がある」とは言わない。恥知らず、単にそれだけ。
 みんなどこかで、某かの「デリケートサイン」を発している‥‥
 
 ブログサイトというのは、単なる日記ではない。今頃気づいた。これは、誰にも理解されたくないわけではないという、僕達の、黒いサングラスである。
 自分の殻の内側に籠ったまま、モノを「言う」ための、一番新しいサングラスなのだ。
 
             ☆

 というわけで今日は徹底的に打ちのめされた。デリケートサインさん、コメントありがと。でもあなたの言葉に比べたら、ぼくのWeblogなど何の価値もない。今夜は眠れるかな? とりあえず2、3時間ほど自己嫌悪に浸ろうと思う。

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